見出し画像

自分の失敗を笑い話にできる能力


バラエティ番組なんかを見ていると、出演者がエピソードトークとして
「過去の自分の失敗を客観的に見た話」をしているところをよく見る。

そういう話は、本人がその体験で負ったストレスや精神的ダメージが大きいほど、
後日話した時の笑いが大きくなりやすいような気がする。

話の中で、当時の本人があまりのストレスに激昂していたり、羞恥心でいっぱいになっていたり、挙句の果てに辛くて泣いてしまったりした時の話だとしても、
上手く話せば、話した相手にドン引きされるどころか爆笑を生む。

イジられて輝くタイプの人が、芸人になった理由として
「コンプレックスや過去の失敗が笑いになる、最高の職業だから」というようなことを言っているのも聞いたことがある。

多分この動画


どんなに恥ずかしいミスや不幸体験があったとしても、「これは客前で話したら笑ってもらえるな」という感覚があるだけで、
それが自分の武器に様変わりするため、その場で食らうダメージ量を軽減できるらしい。

この感覚が、今まで生きてくる中で、ずっと理解できなかった。

要するに、人生で自分の失敗を笑い飛ばせた試しがない。


性質で言えばこの発言をしていた芸人に近い人間で、悲惨な失敗なんていくらでもしてきたのに、この能力が欠片もない。

自分の失敗はただただ失敗であり、辛くて消し去りたい記憶だろうとしか思えなかった。


できる限り思い出したくもないものを詳細に掘り返した上で、客観的な視点を加えて笑いやすく整える作業なんて、信じられないほどの苦行だと思っていた。

それに加えて、誰かに自分の体験談を話すということ自体、人生の中であまりやってこなかった。


会話の途中で、その相手に言いたくなるような出来事が頭に浮かんでいたとしても、
長々と喋った末に場の空気が白けてしまったらと思うと尻込みしてしまい、口に出すことなく終わるようなことが多かった。

回ってきた打席に勇気を出して立つような時でも、話し始めた瞬間から最後までずっと
「伝わるように話せてるのかな…今の言い回しは違ったのかな?」というような懸念が頭から離れず、結局しどろもどろになってしまってばかりだった。


そんなことを繰り返しているうちに、相手に聞かれた時もほとんど自分の話をしなくなっていった。

会話の流れで思い出話の打席がやんわり回ってきた時も、そのままやんわりごまかして過ごしてきた。

そんなスタンスでいることが当たり前になってくると、友達などから「一緒にいてもどんな人なのかよく分からない」というようなことを言われる機会が増えるようになった。

能動的に自己開示をするタイミングが少なすぎて、ある程度仲を深めた相手にすら自分の人となりが伝わっていなかった。

すぐに「これではいけない」とは思ったものの、その頃には「会話の中で自分の思い出話を上手く差し込む筋肉」が衰えに衰えていて、元々どうやっていたのかすら全く分からなくなっていた。

そもそも差し込むタイミングが上手く見つけられないし、場の流れに合う適切なテーマの体験談を瞬時に思い出すことがどうしてもできなかった。

持ち弾もないしリズムも悪いしで、普段から話を差し込み慣れている人たちには到底太刀打ち出来なかった。


ここで、「どうせ自分にはそんな芸当できっこないな…」と思ってウジウジしていたら、
今まで通りストレスに潰されて終わり続ける人生が待っているだけになってしまう。

ちょうど今日は、この後に親友と会う予定がある。
生まれてこの方やったこともないエピソードトークというものを、下手なりにやってみようと思っている。
どんなに上手くいかなくても、彼なら包み込んでくれる気がする。

自発的に挑戦することから逃げ続けてきた人生に、新しい流れを吹き込めるように、こういう小さなことから始めていきたい。

この決意を心の中で滞留させているだけでは、また人知れず諦めて終わってしまう確信がある。

2000字足らずのこの文章をネットの海に投げ込むことで、自分に発破をかけてみようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?