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「引用」というユーモア

会話の中で放り込まれるウケ狙いの言動、というものには様々な種類があるようだけど、その中でも特に苦手なのが、「引用」というユーモアだった。

特定のミーム化したセリフや画像などを持ち出してきて、ネット上でそれらのフレーズが当てはまりそうな状況を見つけては、そこにリプライなどで送りつける。

こういう種類のユーモアは、世の中に広く分布していながらも、主にオタクカルチャーの周辺で用いられているらしく、
普通にネットを見ているだけでも、時折これを多用するタイプの人々の議論の盛り上がりの真っ只中に、いきなり突入させられることがある。

不意にネット上でそういったものを目にすると、テンションが下がる。


「いやいや、それ○○のネタじゃん(笑)」
個人的にはこれが面白いとは思えない。

借り物でつまらない、人のアイデアを拝借した上でウケていない、という状態を目にするというのは、公害レベルでメンタルに来る。

ネタという言葉を会話の中で使うとするなら、その言葉の意味は、寿司か漫才かコントくらいの中に留めてほしいと思ってしまう。

親戚のひょうきんなおじさんですら、どんなにつまらない冗談を言うにしても、そこにはある程度おじさんなりのオリジナリティーが存在していた。

どんなにウケる可能性の低いダジャレを放つにしたって、流石に「布団が吹っ飛んだ」とかそういう階層のものを引っ張り出したりすることは決してなかった。

そこには、おじさんなりのダジャレ観や美学のようなものが多少なりとも存在していて、少なくとも頭ごなしに貶せるようなものではなかった。

要するに、なにが言いたいのかといえば、
親戚の全然ウケていないようなおじさんにも備わっている価値観を持たないのなら、誰かを笑わせようとするのはやめてほしいということだった。


ユーモアを享受する側から脱して、ユーモアを供給する側に回るのであれば、
「他人が考えた面白いフレーズをそのまま言うだけ」というような選択肢だけは、できるだけ持たずにいてほしいなと思ってしまう。

そういう振る舞いに対する客観性の低さのようなものが顧みられることなく、その状態のままでカルチャーとして成立してしまっていることに対する、
「歪んでいる」という印象が、ステレオタイプなオタク差別を抜きにしても、自分が今でもそういった類のエンタメを敬遠してしまっている原因なんだろうなと思っている。
その状態の善し悪しは別として。

友達なんかと、会話やチャットなどのクローズドな空間の中でふざけているような時に、無意識に有名なフレーズを私物化して放ってしまうことがある。

そして、「それ、○○じゃん(笑)」などと指摘された瞬間、あまりにも恥ずかしすぎてすぐにでも家に帰りたくなる。

そういうことがしたかったわけじゃない、ということを、あなたには理解してほしい。

体面を気にせずこうしてふざけていられる、とても貴重な間柄のあなたにだけは、そんな誤解をされたくない。

自分発信のユーモアからは逃げたくないなと思っていることを、あなたの前でだけは体現していたい。

固く信じ続けてきた価値観がブレる瞬間すらも笑い飛ばせる人間になれたなら、そりゃあそれほど素晴らしいこともないだろうと思うけど、未だにそんなドデカい度量なんて持ち合わせていない。

それが身につくまでの間は、そういう自分をあなたにだけは見られないようにして生きていきたい。

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