AI画像生成が「展示」されたら圧を感じた話

3/23,24に開催された「東京AI祭」に個人で出展してきました。「キャラクターにAIを搭載して体験者とチェキを撮る」というシステムで、コンカフェなどや裸眼立体視への応用を進めています。
今回はその話ではなく、「AI画像祭」についてです。

なおこの記事は私の環境や立場に依存しており、書かれている見方は私個人の見方です。「作品」としてパッケージングして展示することの意味を共有できてないと、たぶん意見交わしてもすれ違うと思っています。
またAIに対する考え方のマニフェストでないことはお断りさせてください。

要約

「東京AI祭」に足を運び、「AIが描く画像のアート」としての展示を目の当たりにした私ですが、そこで感じたのは作品としての「圧」やその文脈の変わりようでした。


私の環境や立場

これをまずお伝えさせて頂かないと、推進派なのか否定派なのかの議論として受け取られてしまうので、まず前提共有として私の環境や立場を紹介します。

環境 漫画「ブルーピリオド」のような厳しい指導。それはテクノロジーやメディアを「作り出す立場」だからこそ

漫画「ブルーピリオド」の講評会シーンそのまんまの世界で学部・大学院と育ちました。「ブルーピリオド」の主人公の矢口くんは絵画科油画専攻で私はメディアアート系と専攻・大学こそ違うものの、あれくらい厳しい指導を受けていました(むしろ「ブルーピリオド」は優しい方だと思った)。
でもそれはアカハラではなく、人々の生活や思考、行動を変えてしまうデジタルテクノロジーを作ったり利用してコンテンツを作る立場だからこそ、自分のやっていることが何なのかをきちんと考えなさいということからでした。
これは「推しの子」142話の「(作家ならば)自分だけ安全圏なんて絶対に許されない」と近い話だと思います。

立場 会社員(デザイナー)と作家(,アーティスト)、相反する考え。新しモノ好きと「ほんとにいいの?」

現在は主にXRを中心とした先端メディアのシステムやコンテンツを作る会社で働いています。そこでは新しいモノをすぐに試してR&Dして出すという、新しモノ好きの私には天国みたいなところなのですが、そこで作家としての私がささやきます。
「そのメディアが世の中に何をもたらすのか、本当に細部まで考えずにコンテンツにしていいの?」
時に教育とは暴力や洗脳であるとも言われます。キッチリ洗脳を受けて育った私は、新しいモノにヒャッハーしつつも「ワケが分かっていないものを気楽に使ってほんとにいいの?」と心がささやくという、相反した考えや感情に悩まされることがあります。
デザイナーとしての心とアーティストとしての心、その2つが同居しているからこそ、私はAI推進派にも否定派にもなれず、中立の姿勢を保っていました(あと大学で教えることもあるのでどちらかに傾いてはいけない、という自戒もある)。

データが「作品」になっていく

が、「AI画像祭」というAI画像生成を使ったコンテストで考えを改めさせられる出来事が起こります。
会場ではコンテスト入賞者さんの作品が高解像度で美しく印刷され、きれいにパネル展示されていました。
プロも展示の際に使うレーザー水準器を使い、キレイに展示されている。その現場を私はデモ用のコードの微調整をしながら見ていました。
データが「作品」になっていく瞬間を、目の前で見てしまったんです。「作品」になることで「圧」が出てきた。
ただパネルとして展示しただけなのに。
「作品」として「鑑賞するもの」になった瞬間に、生成結果だったものに対してグワッといろんな文脈がくっついてくることに私は気がつき、戦慄しました。
と同時に、「絵師さんが怖がるのも分かる」とようやく理解することができたんです。

「この作家が作った『作品』」として、批評・評価対象になりうる。それくらい(AIが作ったということを抜きにすれば)クオリティが高いものだった。
現在のAI画像生成は生成者が簡単に絵柄を変えることができるなどの点から、「作者(あえて言います)」が見えなかった。でも「作品」として「鑑賞対象」になり、かつ受賞作品として展示されることで、「作者」が見えてきてしまった。そりゃ絵師さんにとって脅威だろうと。職業を奪われる以前にアイデンティティが奪われるわけですから。AI画像生成によってアイデンティティが奪われるってこういうことか、と理解しました。

頂いたレス(孫レスも含む)の中に、「WebやSNSで展示されてるのと同じでしょ?ただパネル展示されただけじゃん」というご意見がありました。状態としてはまさしくその通りなのですが、「作品」として見せることはSNSで画像を投稿するのとは違ったプロセスが発生します。
インスタに載せる写真を盛るためにAI画像生成を使うのと、ひとつの「絵画/イラスト作品」としてAI画像生成を使うのとは、それぞれ意味が違うんです。少なくても消費者という立場では同じでも、「作家」としては明確に違う。

展示の仕方や作品の並べ方、見せ方にも意味や意図が発生してしまうんです。いわゆる「キュレーション」ってやつですね。その意図を読み取る訓練を受けてきた私には、ただ受賞作品を並べただけには見えなかった。作者が存在する「作品」として成立してしまう「圧」を私は感じてしまったのでした。
別の角度で考えると、鑑賞される作品、かつ受賞作品として展示されてしまったことで、「AI画像祭」の受賞者さんは「作家」として評価される舞台に強制的にあげられてしまったということです。運営さんにその意図はなくとも。
しかも賛否両論うずまくAI画像生成を使っている。「AI画像祭」だから許容されているものの、外に出ると特定の文脈においては「なんで賛否ある技術を使っているの?その意味は?」と聞かれてしまう。

めんどくさいですよね。
そう、めんどくさいけど、「人間に害悪をもたらすという意見もあるものを表現としてわざわざ使うんだから、ちゃんと理由があるんでしょ?」と聞かれる領域があること。そういったまなざしがあるということは、頭の隅に入れておいてもらえたらなと思います。「なんで表現にAIを使う意味を考えなきゃいけないんだよめんどくせえ」という考えを特定の領域で言ってしまうと、「AIが及ぼす良い影響も悪い影響にも自分は無自覚です」と宣言しているにも等しいと取られてしまいます。
趣味でAI画像生成をやるなら特に必要ないかもしれませんが、それを自分の表現としたいなら。
私はAI画像生成をアートの文脈で見たかったわけじゃなくて、賛否両論あるからこそ、展示方法も作品も「否」の部分に耐えられる強度がなければ、結果的に生成者さんの首を絞めてしまう気がしています。

と状態だけ見ればパネル展示しただけのブースにびっくらこいてしまったわけですが、私はモノを作る人間なので、安易に否定派に転ぶなんてことはしませんでした。友人や知人にイラストレータさんも多いので、彼女たちの気持ちを考えると否定派に足をつっこみかけましたが…
安易に決断してしまうのは悪だと教育を受けた身、「作品とは何か?」「作者とは何か?」を考えさせられるきっかけになりました。
今回の(私にとっての)事件を受けて、AI画像生成を使った新作アート作品を考えたくらいです。それくらい影響が大きかった。
なお出力された受賞作品の(AIだということを無視して)クオリティが高かったからこそ起こった出来事なので、受賞作品をネガティブにとらえる意図は全くありません。
ただびっくりして考えた、というだけのお話です。

AI画像生成に対する態度について

私は美術批評家や技術哲学研究者ではないので、AI画像生成の在り方を「これでなければならない」と白黒つける必要は自分にはないと思っています。
「自分の表現にとって」どうかという選択しかできないし、「自分の」見方でいいと思っています。
今後もお仕事は別にして、作品として使う理由や根拠があれば使うというスタンスは崩さないつもりです。
でも本当にパネル展示によって生まれた「圧」にはびっくりした。

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