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ユージーン・スタジオから考えるインスタ映えとメタバース

「インスタ映え」に対する考え方の違い

2/23(水)に話題を引きずりながらも幕を下ろした「ユージーン・スタジオ 新しい海」展。最終日は1時間待ちもざらなほどの盛況ぶり。その感想は賛否両論で、「こんな素敵なものを初めて観ました」というものから、「東京都現代美術館でやるような展示ではない」と酷評まで様々でしたが、特に多かったように思えたのが「インスタ映え」に対する考え方の違いでした。

結論としては、物理の美術展では作品が圧倒的に強い。反面メタバースではコミュニケーションが主体であるがゆえに、バーチャル展覧会ですら「従」になり得る。だからインスタ映えを意識「させられる」ことがない。

私に現代美術を教えてくれた先生のひとりがご自分の個展で許可を得ず撮影した方のカメラを取り上げたこともあって(ちょうどお手伝いでその場に同席してた)、「観せることにも作家は責任を持て」と私は教え込まれました。そういった環境で育ってしまったので、インスタ映えによって作品が「主」ではなく対象者を引き立てるための「従」になることへの違和感を持っています。
東京都現代美術館のインスタ映え特集が叩かれて姿を消したのも同じような理由で、「作品より映える自分を見て欲しい」と捉えかねないようなアングルで撮影されていたからでした。

ただ芸術祭ではインスタ映えは切っても切れない関係にあり、作家自身も100%意識しないことはこの時代難しいでしょう。
より多くの方に美術に触れて頂けたら嬉しいですし、そのきっかけがインスタ映えというのを否定することはできない。

では作家としてどういった立ち位置でいるべきかを考えるにあたり、今回の「ユージーン・スタジオ 新しい海」展は新しい視点をもたらしてくれたと個人的に感じました。積極的にインスタ映えを受け入れる、それが僕たちの世代なんだという考え方です(と私は捉えました)。

メタバースで自分の作品の写真を「撮られる」こと

個人的にはこの考え方にもやもやする部分はありますが、ではメタバース(VR空間・VRソーシャル)で自分が展示した場合も同じことが言えるのかを考えてみました。

SNSにアップするために写真を撮ってくれたこと、写真にユーザーさん自身が含まれること。それが嫌だと全く思わなかったんですね。100%思いませんでした。物理では作品がインスタ映えに「使われる」ことにもやもやする部分があったのに、なぜバーチャルではそれがないのか?

まず単純に撮られ慣れていること。メタバース上では、過ごした日々をユーザ達が写真に撮ってSNSに上げることは日常茶飯事です。そこには誰かが作った「ワールド」と呼ばれる空間も写り込んでいます。ワールド作者さん・アバター作者さん・アイテム制作者さんに対する敬意が界隈全体として明確にあり、その上で撮影され「誰かが作った大事なもの」という意識がある。物理の美術作品では、それを被写体やカメラマンが感じているように見えないからではないかと思いました。
ただメタバースでも、他者が作った空間で撮影した写真を空間の制作者以外が「自分の作品」としていいかの見解は分かれています。

あとはメタバースが基本的にコミュニケーション空間であることを考えると、もともと空間もフラットなものだからとも言えるかもしれません。
物理空間での美術展は作品が圧倒的な力を持ちます。もちろん観客を主役と考えることもできますが、作品の前で私たちは圧倒的に無力です。
対してメタバースではアバターも空間もアイテムも同一次元のものであり、それよりも誰とどんなコミュニケーションをしたかが大事。「主」はあくまでユーザのコミュニケーションであり、アバター・空間・アイテム・作品は「従」。たとえアート個展会場であってもそれは変わらないでしょう(もしくは割合が違う)。
アバター・空間・アイテムが等しく「従」の状況では、インスタ映えは問題にならない。そのインスタ映えを「私の作品」としない限りにおいては。

長々となりましたが、物理の美術展では「主」「従」がハッキリしている。反面メタバースではコミュニケーションが主体であるがゆえに、展覧会ですら「従」になり得る。だからインスタ映えを意識「させられる」ことがない。
「ユージーン・スタジオ 新しい海」からメタバースを考えて、そんなことを思ったりしました。

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