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ただ、欲しかった。



窓の外には雪が降り始めている。

ガラス窓のサッシ部分は結露して、丸い粒々がたくさんくっついている。暖かさと冷たさの境界線に偶然できた粒々の美しさに、心を奪われた。

年明けだった。私は仕事場で、PCに向かい残業していた。どんどん考えが深みにはまっていった。同じことを何回も何回も。ぐるぐると。
──あの人と結婚するにはどうしたらいいのかなぁ。

私は、結婚を反対されていた。


👓


そもそも、彼と出会ったのは、この広大なインターネットの宇宙内だった。ガラケーしかなかった2000年代前半、自宅に設置されたPCのディスプレイで初めて彼の顔を見たことになる。マッチングアプリなんてのも当時なかった。あるサイトの旅カテゴリーを通じて意気投合してメールでやりとりするようになった人だった。二人オフ会をする前の日に、顔写真を送ってもらった。

部屋で自撮りしたとわかるアングル
超短髪
髭面
フレームレスの色付眼鏡
強い眼光

そして、極め付けが、上半身裸。
!?

私は、あろうことか、このようなアウトロー臭ぷんぷんの彼に目が釘付けになってしまった。「美術とか映像の仕事をしている」と言ってたけれど、そういう職業の人はこんな風貌になるものなのかな。私の方は、京都旅行で妹に撮ってもらった渾身のゆかた写真を送ってやった。いやー、お互い胡散臭さの極み!である。

私にだって警戒心というものはあって、断じて知らない人に会いに行くタイプの人ではない。もらった画像を穴が開くほど眺めて、どんな人なのかを察知しようとした。彼は、眼光が圧倒的に鋭くて、怖いくらいに孤独な感じがした。でも、背景にたった一つ写っている部屋のカーテンが、無印良品の赤のチェック柄で温かみを感じたので、それだけで会うことに決めた。

初めての待ち合わせは、お互い前から知っていたエスニック料理店にした。ドキドキしながらお店の中に入ると、カウンターに白いリネンシャツを着た人が手をあげて待っていた。初めましての挨拶は礼儀正しかったし、シャツにはアイロンがピシッとかかっていたし、アウトローではなさそうだった。

「なぜ部屋で上半身裸のセルフポートレート撮ったの?」
と、問う私に、
「部屋にエアコンがなくて異常に暑かったから脱いで涼むしかないんだ」
「君に顔写真送れと言われて、急いでそのまま撮っちゃった」
と頭をかきながら答えたのが可笑しかった。

その店は、小さな雑居ビルの屋上に位置していた。ルーフトップには南国のヤシっぽい植物がごちゃごちゃとおかれていて、小さな電球が明滅していた。窓は開け放たれている。目の隅っこにキラキラした光をとらえながら、よく冷えた333ビールで乾杯した。食べ物のオーダーもすんなり決まる。
生春巻
サテ
トムヤムクン
ナシゴレン
食べているうちに文字でやりとりしているときの親密な空気が戻ってきてどんどん楽しくなっていった。加速度的に。

一番美味しかった食べ物の話をしていた。
バンコクのBTSスカイトレインの駅下に、路上に出ているバーミーの屋台。黄色みがかった縮れた中華麺には、フチが赤っぽいチャーシューと青菜がのっていた。透明なスープと一緒にすすると、旨みが口の中いっぱいに広がって、箸が止まらなくなったんだよ、と私は話した。
その店を、彼は知っていた。
盛り上がる私たち。

その時、何かの弾みで彼のフレームレスの眼鏡がずれたのだ。見てしまった。

右目の下に小さな涙ほくろ。

私は、もうその時に、好きになってしまっていたと思う。眼鏡を外して、いつもは隠れているその涙ほくろを思うさま見てやりたいという衝動に駆られた。

そして、記憶は飛んで、初めて彼の家へ遊びに行った日。

彼の家は、木造のたいそう古いアパートだった。部屋に入ると扉の向こうには、割と広めの台所。そして、すごく立派な食器棚に、揃いすぎている調理器具があった。それらを見たら、私は分かってしまった。最初はぼんやりと頭をかすめただけの予感は、大きすぎる冷蔵庫を見た時に確信に変わった。だから私は、彼に出されたお茶を飲みながら、するりと聞いた。
「ねえ、あなた結婚してたでしょ」
彼はグラスを洗っていた手を一瞬止めて、すまなそうに言った。
「ごめん、バツイチなんだ」

一度何もかもが終わってしまったのだ。彼は。
続いていくと思っていた生活を失って、そしてどうにか立て直した。
──そうか。それであの目か。
合点がいった。

私は押し寄せてくる感情を処理するために、その日はあっさりとすぐに帰ることにした。帰る間際に、彼は言った。
「もう会えないのかな」

彼の家には、仕事で使う映像機材がきちんと整理整頓されて置かれていたし、大きな木の本棚にある蔵書は彼の人柄が現れていた。会う時にもらったポートレートに写っていた、無印の赤いチェックのカーテンも、部屋をなんだか居心地良くしていた。ので、また来ようと強く思いつつ、扉を閉めた。


👓


やっぱり、というか、案の定、私は結婚を反対された。
私の親戚すじに。
彼がバツイチなことと、40近いのに非正規雇用だったことが、反対派の理由だったそうだ。地方の第一次産業しかない田舎で、私の一族は、ほとんどの者が教員をしていた。田舎なのは悪いことではない、けれど、定型の進路に当てはまらない自由な感覚の進路を解さない。「幸せなんて何でもあり」な感覚からは一億光年くらい離れている。私は盆正月の親戚の集まりを「職員室」と呼んで嫌悪してきた。その「職員室」で、否決されたのだ。

彼を、親戚中が納得するような人に仕立てるにはどうしたらいいんだろう。
縁故採用で何処かに入ってもらう?
そこで、終身雇用?
ホワイトな事務をするとか?
しゃかりきな営業マンになるとか?

…結論。
それは、彼ではない。
別の人だ。
彼は彼のしたいことをし続けて、それが仕事に繋がって、たとえそれが大きなお金にならなくても、それしかしたくないし、それしかできないし、それをやり続けることが彼らしさを作っている。彼の人となりになっている。彼は彼でしかない。

仕事で撮ったという写真を見せてもらったときに、伝わってきたこと。ライティングもアングルもフレーミングも誰かに言われてやっているのではなく、それが当たり前に一番適切だと導き出されたからそうしてるんだ。

そんな人を、四角四面の綺麗な箱に入れて、誰もが納得するような年収の、誰がやっても良いような仕事をさせようだなんて。…傲慢な!
私は初めて、彼のために怒った。
私は初めて、彼のために泣いた。
彼は、彼でしかない。それを守りたい。丸ごとそのままを好きだ。

考えはどんどん熱を帯びてオーバーヒートした。
そこで、冒頭のシーンとなる。

窓の外には雪が降り始めていた。

ガラス窓のサッシ部分は結露して、丸い粒々がたくさんくっついていた。暖かさと冷たさの境界線に偶然できた粒々の美しさに、心を奪われた。私の熱い指先はその冷たい粒々に触れた。

その瞬間、心の中に、私と彼の人生が重なり合うことでしか発生しない大切な世界線があるんだ、と閃いた。「それが欲しい」と強く思った。


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その夜、はやる気持ちを胸に車を飛ばして帰宅した。私は、父と母を前に熱く語りたいと思った。彼のどこがそんなにも好きなのかを。ぐわっと取り出して手渡したかった。

こたつの向こう側に座る父と母。いつものリビングなのに、何となく暗くて、重苦しい。こたつカバーのコーディロイ地を撫でさすりながら、心を落ち着けて話した。彼と一緒に行った旅のことをゆっくり話した。

「私はこれまでツアーでしか国外に出たことがなかったけど、こないだバックパックだけを背負って個人として彼と出かけたじゃん?
着いた日にめちゃくちゃ私は変わったの。
渡航第1食目の夕飯は、私が選んだお店に彼をアテンドしようと、地球の歩き方とガイド本を手に、意気込んで街に飛び出していった。でも、道に迷った。
焦って本と首っぴきの私に彼は言ったんだよ。
『もう、本から目を上げて、周りを見回してみて。行かないとならない場所や食べておくべきレストランなど一つもないんだ』
私はそこで初めて目が覚めた気がしたよ。見まわせばそこに生の情報が溢れていた。音が光が匂いが気温が急にぐんと迫ってきて、やっとここに私は存在しているって肌で感じ始めたの」

話し始めると止まらなくなった。
頭の中には、バンコクの暮れてゆく空と高層ビルと雨の気配が広がっていた。

「私は、これまで教科書のとおりに吸収すれば良かった。ガイドブックのとおりに見聞きすれば良かった。誰かに正解とされるテンプレートがあって、それをどのくらい達成したのか、どのくらい再現したのか、に重きを置いていた。
でもね、そうじゃない旅があるって知ってしまった」

ガイドブックをパタンと閉じた時、目をあげると彼はとびきりの顔でニッと笑った。右目の下に小さな涙ほくろ。

「旅に行ったら、感じるだけでよかった。
どんな人たちがいるのか、どんな物を食べているのか、どんな話をしているのか。
ただただそこにいて感じるだけでよかったのよ」

「彼に出会って分かった。
人にどう見られるかではない、自分がどうあるかが大切なんだ」

父母は、私の結婚に反対なのではなくて心配している様子だった。母は、指の跡が残るくらいに目の下をギュッと抑えて聞いていた。父は黙って腕を組んでいた。二人とも口を挟まず最後まで聞いていた。

私たち三人は、母が淹れた熱いお茶をガブリと飲んだ。それまで気まずかった空気はどこかへ霧消して、緑茶をスッキリと美味しく感じることができた。

私の背中には、いく筋も汗が流れていた。
人生で一番緊張したプレゼンだった。

「欲しい」が、届いたと思う。


👓


笑っちゃうのは、今でも夫をハンドルネームで呼んでしまうことだ。出会った頃にメールをやり取りしていたあいだは何とも思わなかったけれど、その名前はよくあるアメリカンな洋名だ。本人はかなり和顔のおじさんなのに。仮にサムとしよう。

サムは、今月もまた、一人で旅に出ている。

私は、片田舎のすごく情弱な環境下に犬と娘と住んでいる。純和風の漆喰壁の部屋で、昔から使っているマグカップでコーヒーを飲みながら、娘とサムとビデオ通話でなんてことない会話をしている時、その気持ちは降ってくる。

──あれ、サムって誰だっけ。

漢字を練習帳に何度も書き連ねているとゲシュタルト崩壊して何の字を書いているのか認識できなくなってしまうように、夫が、知らない人に思えてくるのである。

そんなある日、Instagramのタイムラインを追っていて、目が釘付けになった。
大河の茶色の濁流、流れていく水草。なぜか心惹かれるのだ、その景色に。
私の好きな都市の、夕暮れ。朝の、黎明の空。公園でウォーキングをする人の背中。

そして、自撮りをしたと思われるポートレートが流れてきて、息をのんだ。
最初は、知らない人だと思った。
顔つきが国内にいるときと全然違ったから。
でも、夫だった。右目の下に小さな涙ほくろ。
──またかよ。

また、出会ってしまった。
サムに。





ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。