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私が感じるこの世界は本物なんだろうか


 北緯4度ちょっと、東経73度ちょっと、日本から7000km超、そのあたりを漂っていた。文字通り洋上を漂っていた。なぜなら、島へ向かう船がエンストしたからである。暗闇にディベヒ語が飛び交っている。自分ではどうしようもないし、状況が分からな過ぎてぼんやりしていた。空気は生ぬるくて潮くさい。


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「つめてーのな」
いつもと同じ何の非もない対応をしたはずだったけど、私が仕切ったミーティングで、相手方の部署のタニさんはそう言い切った。私が属しているのは総務的な統括部門で、タニさんは外部と最前線で丁々発止と渡り合っている部署にいた。

 新社会人としての私は、仮面を被ることに精一杯だった。本音や人間らしさを心の奥底に沈めて、あくまでも効率と合理性を追求しなければならないと思い込んでいた。たやすく折れて譲歩してしまう私を、教育係のシロさんはもっと強くあるように、と諭した。シロさんは決して人でなしになれと指導したのではなかったが、私は楽な方へ楽な方へと流れていった。そして、人を「記号として」見るようになっていった。マニュアル。成文化された対応。数字の動きさえ追っていれば、人の気配や温かみはいらない。本当の声を出さない。

「木で鼻を括るみてーだな」
タニさんから発された言葉は私の心に刺さった。私は組織の一歯車に過ぎなくて、部品として立派に機能しているのだから、傷つく必要はなかったのだけれど。

 ふいにコンビニでの出来事を私は思い出していた。仕事帰りに寄ったコンビニでお弁当を温めてもらっている時に、私の中で記号でしかない店員さんが
「夕方すごい雨だったけど、お帰りになる時間には雨がやんで良かったですね」
と唐突に話しかけてきたのだ。その声に心がこもっていてほんのりと嬉しくなったんだよな。初めて意識して店員さんを見たら、少し頭に白いものが混じった年配の男性だった。すうっとピントが合った。このコンビニの店長さんだろうか。

 コンビニの店長さんの顔と目の前のタニさんの顔が重なったら、途端に、私は知りたくなった。タニさんが何に困っていてどれぐらい無理をしていて、どんな考え方で何を見てきたのか。すると仮面を被っている時と違って、葛藤、不安、無力感、焦りといった感情が自分に次々と流れ込んできて戸惑った。タニさんの問題を自分のこととして捉えたらそうなってしまった。
「あのう、タニさんのA営業所からは離れていますが、P営業所にデッドストックの備品があることを思い出しました。使えませんかね?」
「古過ぎて使えねーかも。でもやり方はある」
タニさんは、にぃーと笑った。タニさんの目と目の間は少し離れ気味で、笑うとトトロの猫バスみたいな、アリスに出てくるチェシャ猫みたいな、ユーモラスな顔になっていた。タニさんの顔を私はやっと覚えた。

その日、心に流れ込んできた負の感情。
瑞々しい感情は私を大きく揺さぶって新しい疑問を運んできた。

何を言えばいいの。
何をしたらいいの。
私は何なの。
あなたは何なの。

初めて社会人として誕生した瞬間だったのかもしれない。


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 この世界にはたくさんの人間がうごめていて社会を形成しているけれど、私の世界には存在していないのと同じだった。と思う。駅員さん、宅配便のお兄さん、ゴミ出しの時にすれ違うサラリーマン、ビルの入り口に立つ警備員さん、それらもろもろが私には記号でしかなかったのだ。

私が感じるこの世界は、本物だったんだろうか?

 一人一人が生きていて、考えて、動いている。どこかに家があって生活していて、食べたり飲んだり笑ったり泣いたりする。・・・、そんなふうに見ていなかった。
 毎日目にしている朝の風景の中に夥しい人の営みが隠れていることを意識した途端に私は怖くなった。情報量が多過ぎて。でも、その日を境にやっと気が付いて考え始めた。その流れを止めたくなかった。

AND  I  THINK  TO  MYSELF  
WHAT  A  WONDERFUL  WORLD

私は決めた。

本当の青色を見に行く。
絵の具のチューブや色鉛筆で目にしている色は本物ではない。化学物質を合成して色を再現しているに過ぎない。青い色が見たい。はっきり分かるように、しっかりと感動したい。心の底から美しさとか光とか色とかピュアな原体験としての祝祭を感じたかった。私はモルディヴに行くことにした。生まれて初めての賞与は、生まれて初めての海外旅行に使うことになった。


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 地方にある自宅を出て、かれこれもう12時間以上移動し続けている。バスと地下鉄を乗り継いで国際空港へ、国際空港から9時間20分、トランジットしてスリランカのコロンボ空港から1時間30分、フライトした。モルディブの首都マーレにある空港から先は小さな船に乗って島へと向かう。
 旅行には三姉妹で行った。妹達も初めての海外旅行だった。それぞれ各人、海外旅行へ行くため日本できっとたくさんの調整をして一週間を捻出してきたはずだ。船に乗った私たちは一様に疲れ切っていた。早く着いて欲しい。それだけだった。
 しかしながら、船はエンストした。
 ぬるい風が吹く真っ暗な海の上で、どっかに流れていった。乗組員がどこかに無線で連絡を取るあいだ波にたゆたっていた。現地人のほかには私たち三姉妹しかおらず、あっという間にものすごい勢いで船酔いして、三人ともかわるがわる船尾に行っては吐いた。吐きながら思った。あー、生きてるなあ。昨日まではエアコンの効いた部屋でクレーム対応の書類作ってたんだけどねー。それにしても、遠い。「本物の世界」に私は辿り着けるのだろうか?
 船のエンスト原因は、ガス欠だったらしく、別の船が持ってきた燃料を入れると元気に動き出した。深夜にやっと私たちは南国ムード満点のロビーに着いた。クラッシュアイスがたくさん入った大きなグラスに注がれたオレンジ色のウエルカムドリンクには、どピンクのパラソルがささっていた。

翌日、目が覚めたらもう太陽はずいぶん高い位置にあった。ヴィラの前には強い強い光が射して足元の砂の白さが目に痛かった。海の手前の藪は黒く濃い影を作っている。生い茂る葉っぱをかき分けるのももどかしく海へ。

 そこには、青というには、あまりにも儚い、澄み渡る光を閉じ込めた透明な海があった。作家の超有名なあの作品「限りなく透明に近い・・・」とはこれではないかしらと思いながら目線を上げると、波打ち際から水平線に向かって素晴らしい絶妙なグラデーションで少しずつ青が重ねられて濃くなっていくのが見えた。そして何故か、初めて泳げるようになった小学2年生の夏休みに、学校のプールに潜って水底から見た水面と空を思い出していた。
私はじっと見た。
長い時間見ていた。
カメラマンや絵描きではないので、心に焼き付けることにした。
モルディブの青を。
でも、「本当の青」はすでに人生で何度か見ていたらしいと思い至った。

遠路はるばる来たのにね。


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 今でも、目の前にいる人の後ろ側に広がっている漠とした世界を覗き込んでしまった時には、怖くなることがある。でも、知ることが楽しみでもある。それが本物の世界だ。私は、止まらずにどんどん見続けたいと思っている。

本当の色を。

本物の世界を。

目に焼き付けて行こう。


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epilogue

「昨日まで夏休みだったのに、こんな時間まで引き止めてごめん」
深夜のファミレスで煮詰まった熱すぎるコーヒーを私の前に置きながらシロさんは言った。
「すいません。一週間も留守にしちゃって」
私はシロさんの目の下に薄青く浮き出ているクマに視線を合わせながら謝った。シロさんは私の教育係。新卒してすぐ配属された部署で私の指導をしてくれていた。私は、就職して初めての夏季休暇を使い切った所だった。制度として存在はしている福利厚生だけど、新社会人の私が一挙に全日数を消化しようとするのはなかなかの勇気が必要だった。職場には「なんでお前が休み取れるわけ?」という空気が立ち込めていた。一週間の穴は意外と大きかったし、休む前日に、降って湧いたような大きな案件が勃発して部署全体が大騒動になっていた。でも、シロさんは「行っていい」って割と強めにみんなの前で言ってくれた。帰国して恐る恐る出社すると、シロさんはほとんど案件を片付けていて、最後の仕上げをしようと言ってニコっと笑った。

 シロさんは、呼び名と違って肌が真っ黒な人だった。
 週末に趣味で磯釣りに行っていると分かったのはずっと先の話だ。



ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。