「私刑」を許してはならない理由

私は怒っている。

この記事を見て。

これは所謂「私刑」である。
このような「私刑」は、法の支配を揺らがす大変危険な行動であると言わざるを得ない。

なぜなら「公権力」を縛るものはたくさんある(例えば憲法)が「私刑」は私人が行うので、法律に縛られる以外の阻害要因がない。極端な言い方をすれば、法律は「反すれば罰を受ける」≒「罰を受ける覚悟があれば反してもよい」というものとも言える。

だから、その「一線」を越える覚悟があれば、容易に「違法行為」ができてしまう。
公権力のように、モラルや倫理にも縛られないからね、私人の場合は。

つまりは「私刑」を許すと「法の支配」ではなく「許せない存在」を「勝手」に罰するという『感情、人の支配』になってしまう。

これは『多数が気に食わないものならば処罰してよい』しかも逮捕、勾留、送検、裁判という司法手続きをする必要もないという極めて危険な感情主義行動である。

『法』とは無機質でなければならない。
そこに感情や忖度があってはならないのである。
理由は簡単だ、そんなもののために法律を捻じ曲げて解釈すれば、たちまち「骨抜き」になり、法としての「公平な裁き」ができなくなるからである。

この「私刑」は「法律」を「無機質で公平に裁くための規則」ではなく「感情や多数派の意見で簡単に人を裁けるもの」に変えてしまう。

これではいくら優秀な法律があっても意味がない。

小児性愛者を許さないという感情のために、殺人が許容されるようなことは、厳に慎むべきであり、これが許されると、他の私刑も許される風潮になる恐れがある。悪しき正義の芽は、悪の芽と同じように、早く摘まねばならないのだ。

どんなものでも、違法行為をしなければ処罰しない、処罰するには司法手続きを経なければならない、法律にある範囲で処罰を与えなければならない。

という、優秀なシステムを自ら壊すような、みっともないことはないようにしてほしいものだ。