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私が最近書けなかった理由

最近、文章が書けなくなった。
文章を書くスイッチが入らなくなってしまった。

理由で一番わかりやすいのは、時間がないってことなんだけれど、きっとそれだけじゃないだろうなって思っていて、それがやっとわかったので、今書いています。

前に私が書くことについて書いた。そのなかで私は“遠くて直接ことばで伝えられない人、近すぎて伝えられない人に、伝えたいから書く”と書いた。
そう、今私は両方ともできている。正確には、遠くて伝えられない人がいない、近い人には最近直接言えるようになってしまった。

だから、書く必要がなくなった。

ここには書かなかったけれど、もうひとつ私には書く目的がある。
“人の想いを届けること”。想いがにじみでているお店とかモノとか、その人の生き方とか。その場合は届けたい人ではなくて、その想いの持ち主に私の気持ちはある。だから、私は地方に旅行にいくとブログを書く。地域には人の想いが詰まったものがたくさんあるから。
この書くことはまだまだできていなくて、今必死にこれを書く場所を探している。現状ひとつ立ち上げ準備中のメディアでは、インタビューをして、人のひととなりにフォーカスした記事を書きためている。それが、走り始めたらもっと書きたい。ここにおさまらず、もっと違うところでも書きたい。

実は去年の今頃は私のブログの全盛期で、今でもいろいろな人に読まれている記事を書いた時期だった。今でもそういうねたが全くないわけではない。ブログのねたがないというのは、言い訳。常にある。
それが書きたいのに、書けなかった。

私が去年記事が書けていた理由は、ブログだけが、書くことが、自分と社会のつながりを強く感じれる場だったからだ。記事を書く、Twitterでリアクションをもらう、PV数がのびる。それを見れば見るだけ、感じれば感じるだけ、わくわくしたし、うれしかった。その繰り返しで書いていた。
今でも書けばそれができることはわかる。けれど、私は今書くことではないことで、ブログ以上に、わくわくして、うれしくて、楽しいことを見つけてしまったから、社会とつながるためのブログは必要ではなくなってしまったのだと思う。

それが、しごと。詳しくはこちらの記事で読んでほしいんだけれど、しごとってすぽってはまればものすごく面白いものだと思う。私の場合、自分で作るもの(イベント)に対して私が届けたい人たちの動きを目の前で見ることができて、誰かの心を動かしていることをありありと感じることができるし、「ありがとう」の言葉を直接聞くことができる。
もちろんつらいことも増えたし、前よりずっと深いつらさもあるし、怒られることもあって、泣いたこともある。でも、その分喜びや楽しさの波も大きくなる。
ある意味、ブログとは逆。きっとそれが合う人がブロガーなのだと思うけれど、たぶん私はそこの人ではないんだと思う。

書くことはなんにでもなれる。人の想いを形にすることもできるし、寄り道したくなる駄菓子屋さんにもなるし、寝るときに読めば湯たんぽにもなるし、逆に、ささってとれないとげになることだってできる。
だから、書くことは私の魔法道具として、なりたい自分になるために、周りの人に届けたいものの形に合わせて、書いていきたい。

ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。