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書くことについて書く

きのう、ある人との対話で私にとっての書くことと向き合ってみた。

確かに、なんで私書いてるんだろう?
私にとって書くことってなんだろう?

わからないけど気づいていたら書いていた。小学校のときから書く機会はたくさんあってずっと人並みに書いているだけだと思ってた。お母さんがお母さんは文章を書くのが上手だから、ゆかも上手だよっておだてられてた気もするし、小学校の先生と交換日記みたいのがあってシール集めるのがうれしくて書いてた気もする。

人より少し多く書いていた気がするのは日記。過ぎていく毎日を少しでも長くとっておきたくて、ちまちま書いてた。そして読み返すときのきもちがなんか好きだった。

前の記事にも書いたけど中学高校のときはそとにだせない自分を書いていた。

大学になってブログを本格的に始めた。PV数とおかねを稼ぐために書いてみた。最初は書くことでまわりからの評価を得れてたのしかった。けど始めて少ししたら書けなくなった。まわりからの評価を、反応を得るために書いていた。すると自分の意思に反するものを書かないといけなかった。だから、つらかった。

だから、そういう文章を書くことはやめた。そのかわりに、私はじぶんとひとのために書くことにした。

ブログをちゃんとやってて楽しかったのは数字としてあらわれたのもあるけど、それよりたくさんの人に読んでもらうことで、だれかを元気にしたり、楽しんでもらえたり、感動してくれたり、心が動いたりしたからだった。

今はそれに加えて、書くことは私にとっての手紙みたいなものでもある。遠くて直接ことばで伝えられない人、近すぎて伝えられない人に、伝えたいから書く。

私が書くことでぶらしたくないものはみっつ。
だれかを想って書くこと
純度100%であること
でも、反応は期待しないこと、あくまで自己満。

私は書くことがだいすきだし、それがエネルギーになってしごとができている。つまりしごとで消耗しているというわけで、その現状がしっくりきているわけではないけど、そんなものなのでしょうか。書くためには、私は他である程度安定している必要があって、しごとはおかねの安定のため。

ってね、この「しごとはおかねのためだ」みたいな考え方、私は大学のときとても嫌っていた。だから必死に私の生きる目的と重ねようって努力してた。けど、あきらめた。考えなきゃいいのに私には考えすぎるくせがあって、掘っていくと絶対にずれは発生する。

だから、私はしごとは会社のためとか社会のためではなく、自分と目の前の人のために働くことにした。やっぱり働くとできないことが出来るようになるし、誰かの役に立てることが増える。
目の前というのはお客さん。やっぱりありがとう、といわれることは嬉しいし、何かを作り上げてくのは楽しい。

そうそう、ありがとう、といえば存在価値の話もしたかったな、と思ったのですが、長くなったのでまた今度。

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きょうのしゃしん
千枚田


この土日で能登半島に行ってきました。自然とごはんとひとに癒され、改めて生きることに考えさせられました。これはブログにまた書きます。

ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。