特別扱い
この前のしいたけさんの蠍座フォローnoteは、最近私が悩みまくっていたことだったのでびっくりした。私だけじゃないんだとわかってどこか安心した。
私は基本的に人が好きだから、目の前の人に誠意を尽くそうと頑張るけど、そうでないときもある。そうというのが何を指すかというと、特定少数は好きで、不特定多数は苦手。
例えば、会社の関係に意思はなく偶然、だから不特定多数。そうではない人たちは、大げさにいうなら、私と過ごす時を選んでくれている。そこには意思があるから、特定少数。私が私である理由があるし、逆も然り。だから、私もその人たちのことを精一杯大切にしたいと思う。
そのnoteの中で一番共感したのは「人から興味が持たれていないと、関わらない方に舵を切る」ってところ。私は、相手から誠意を感じなくなると、無になってしまう。誠意が何かというと、私が個人として見られているという感覚。英語の冠詞の “a” か “the” でいうと、“the” みたいな。私がその人にとって不特定多数だと感じると、切なくて虚しくなって、それから逃げるように感じない方になってしまうんだと思う。
それを修正するために必要だと言っていたのが、「10w光を落とすこと」。めずらしく、正直、わからなかった。私は基本的にテンション低いから、これ以上下げたら停電しちゃう。そういうことなのか、わからないけど。
「特別ではないこと、普通であることを受け入れる」
好きな本の言葉。ずっと心がけていたんだけど、気づいたら、特別であることを求めてしまっていた。特別扱いしてくれていると感じるところに居たいと思ってしまう、されてないところをあきらめてしまうことは、いいのだろうか。
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ということは結局、他人からの目線を気にしているということ、と思ったときに悲しくなった。昔の私よりは自分本意で生きられるようになったって思ってたけれど、そんな変わってない。
他人の視線が気になる。例えば、前はこう言ってた、こんなことしてた、でも、今は違う。そこにある矛盾に、嫌気が差してしまう。これを避けようとすると、生きづらくて仕方なくて、自分の首を自分でしめてる。
追記
他の人のこれは全然気にならないのに、自分のは気になる。むしろ変化していく人の近くにいるのは楽しいし、変化があるとうれしい。なのに、自分はダメなのは、なんでなんだろうな。
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「生きるのも死ぬのも大したことじゃない」「びびりすぎんなよ」(「さざなみのよる」より)
人はあげたりもらったり、繰り返しながら生きてゆくけど、結局、何をあげてもらったかわからない。し、途中で色々なものを失う。それが悲しかったけど、そうやって生きていくしかないのだと。
最近、どうでもいいって思いたいことが増えた。本当はだめだけど、私はもう死んでもいいかもしれないというところから思考を始めると、生まれてしまったんだから死ぬよりは生きるほうがいいし、せっかく生きるなら一ミリくらいは誰かの何かのためになることを残したいし、心も健全に生きたい。逆に、それ以外はきっとどうでもいいんだと思う。
だから、どうでもいい代表例が、他人。どうでもいいはずなんだけどね。
当たり前だけど死んだら、私も、私の気持ちも、私に対する気持ちも、すべて消えていく。だから、他人のそれらも消えていってしまうから、本当に何もかも大したことじゃない。失われていく悲しさもあるけれど、だからもっと自由なんだよ、たぶん。
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誰も誰にとっても特別じゃないというか、あきらめたほうがいい。それは、期待をすることで、裏切られるということでもあるから。
だけど、少なくとも私が私を特別扱いすることを許したいし、私が大切にしたい人を特別扱いし続けたい。
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思ったよりも、私は自由ではなかったらしい。他人と自分と過去から、逃げることはできない。だから、やっぱり面と向かって、びびりすぎんなよってことなんだと思った。「びびるな」じゃなくて「びびりすぎんな」ってとこも、いいよね。
ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。