殴るように書く

全然今でも闘病中だったんだと思い出させてくれる通院。毎月本当にありがとう。健常な心を返せ。
別にめちゃくちゃ悪くなっているということは無いんだけど、それでも結果だけ見ると超微悪化みたいな感じに見えて、また落ち込んでる。
まあ数値だけ見ると今も普通の血液値であることに変わりはないんだけど、それでも当社比でほんの僅かでも翳りが見えるとたちまち心も翳ってしまう。
慣れることは多分無い。
この緊張と常に共に生きていくんだ、あーやるせねーよー。

夜は色々考えてしまう。

おばあちゃんが亡くなって、こないだお通夜して葬儀をした。最後の夜の前に病院で会えて、当たり前だけど苦しそうで見ていてしんどかった。
叔父(私の母の弟)は未婚でおばあちゃんと同居していたんだけど、叔父の声でおばあちゃんが何度か目を開けていて。いくつになっても子どもってずっと自分の子どもで、心配してしまうんだろうな、と思った。思ったというか実感したというか。
心の調子が悪いのも、棺の蓋を閉める瞬間と火葬炉に入る瞬間で母が泣き崩れてしまうのを見て、死ぬことについてまた色々考えてしまったからなのかも。

死ぬって、全部奪われることなんだと最近思った。

私がもし死んだら、息子は母親を奪われることになる。もうママと遊んだり、お話ししたり、支えられたり、お世話されたり、そういうのが出来なくなる。同じように夫は妻を、母は子を失う。

だけど死ぬ側の私は、その全部を一気に失うんだなとようやく気付いてハッとしたというか。
この世に今ある大切な人やもの全部、一気になくなってしまうという恐怖。死ぬこと自体への恐怖よりも、全部なくなってしまうという漠然とした強迫観念に銃口を突きつけられている気がする。
私にとっての死への恐怖は、この意味の方がデカそうだなと朧に思う。

ぶっちゃけ、それがどれだけ大切な人でも、居なくなってしまう人が一人だけならば、その先も生きていくことは出来ると思う。
他の大切な人と支え合いながら、その人との思い出を胸に、時間と共に傷を癒しながら進んでいく。というのは再生の物語としてよくある話で。
人はそういう風に出来ているからこそ、最愛の人を失った時もその片割れは死なずに済んでいるんだと思う。

だけど死ぬ側の人はそんなこと出来ない。
全部一気になくして、癒してくれる人もいない。正真正銘の孤独、未知だからこそ怖すぎる世界。

『神様、あの子を奪わないで』とドレスコーズが死を歌っていたけど、歌われる死は当然生きている側から見たものだということに、長い間ずっと気付かなかった気がする。
死ぬ側から見た景色を垣間見る機会が増えてようやく「奪われる」ということの本当の不条理さを思う。最悪の比較級だけど、奪われるのが『あの子』だけなら、多分まだマシなんだと思う。

自分のことばかりで嫌になるな。もちろん残される側も喪失を抱えて乗り越えていかなきゃいけないのに。
そんで、自分が死ぬみたいな前提で書いてるのに気付いてこれまたもーーー最悪。全然まだ死なんのにな。こんなんなるなら大事な人なんか増えてくれるなよとも思ったけど、子どもたち二人居ない人生なんかもう生きる意味無くなってしまっている。神様私からこの子たちを奪わないで。夫も親も家族も友達も奪わないで。

THE 2の解散ライブを観た。配信のアーカイブでだけど。
久しぶりに胸が躍るようなライブだった。最後の新曲と言って披露した『蛙鳴蝉噪』が最高だった。THE 2みたいなバンドがしんみり泣いているのとか観たくないので、最後にりりーすされるのがこの曲で本当に良かったと思う。

ってなんか良い話で終わらそうと思ったけど無理だな。不条理に対して無性にイライラする。
それをぶつける先が無いから、今の悩みを綴ったSNS投稿や「涙が出る」みたいな言葉、自己顕示欲を垂れ流す一切のものに矛先を向けてイライラしている。
くだんねー悩みだなオイ、健康なくせに。この先も特に危機なく生きていく前提での悩みなんてくだんねーよ本当。ワシと変わってくれよ、その程度の悩みなんか喜んで背負うから。

これって、私の方が辛い症候群ですよね。でも本当に私の方が辛いと思います。だからと言って、人には人の悩みがあることに背を向けるのはまた違うんだろうけど、それでも健康に生きていける未来を持ってまだ色々と悩むなんて贅沢だなとしか思えなくなったよ。人に寄り添うには、自分の心の余裕も必要なんだと思って、しばらくデジタルデトックスをすることにする。

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