小さな掌
先日書いた日記の中でpaioniaの新譜を聴いたと書いたがそれは嘘だ。
嘘というか、朝から再生はしていたものの、まだ脳まで届いていなかった。なんとなく音を追って、高橋さんの声を聞いて、paioniaっぽいメロディだな、とかフカしていた。
それだけだった。
本当に『pre normal』を聴いたのは午後3時。
息子とのお散歩が終わって家に帰ってきたのが午後1時過ぎだった。ベビーカーの中で寝てしまったので、そっと抱き上げ布団に運んだら案の定背中スイッチで起きて泣いた。
少し落胆する気持ちで、あやしたり歌を歌ったりしてどうにか落ち着かせた。とはいえトイレに行きたかったので「ちょっと待っててね!」とデカい声を出しながら走ってその場を離れた。息子は瞬間にまた泣き出し、その泣き声がトイレまで聞こえ、心配でどうしてもストレスがかかる。
30秒も離れていなかったはずだが、戻るとあやしてもどうにもならないくらいの泣き方になっていたので、仕方なく6.5キロになった息子を抱っこして高い高いする。(私はもともと側湾の腰痛持ちで、妊娠を機に腰が臨終しているのでこれがマジで辛いのだ)当然腰はお亡くなりになったが、その甲斐あって息子はキャッキャと笑ってくれた。
高い高いが最近のブームらしい。ちょっと前までのいないいないばあブームが懐かしい、アレなら顔だけで済むので是非あの頃に戻ってほしい。
そんな感じで息子の機嫌を直し、プレイジムで一緒に遊んでいたらpaioniaの『pre normal』の盤が宅配で届いた。そこで、せっかくだからコンポでこれを聴きながら遊ぼうと思い立ったのだ。
『小さな掌』、この曲を初めて聞いたのは新代田FEVERだったと思う。高橋さんが「結婚する友達のために作った曲」というようなことを言っており、それもあってか、その時はロマンティックな曲だなあと思う程度だった。
その頃の私は愛を歌った曲に対して斜に構えているところがあり、この曲が伝えんとすることを聴こうとしていなかったんだと思う。
それから何年か経ち『小さな掌』は去年の12月にデジタルシングルとして配信された。もちろんダウンロードした、が、正直に言うと聴いてはいなかった。8月に出産し、子どもとアパートに帰り、初めて尽くしの育児に加え年末年始の準備にバタバタしているうちに聴くタイミングが無くなってしまったのだ。
だから本当の意味でこの曲を聴いたのは、この日が初めてだったのかもしれない。
勢いよく寝返りをして頭を打った息子を抱き上げた時、聞こえてきたのがこの詞だった。
驚いた。瞬間に涙が溢れてきた。
平日昼間の平場で信じられないくらいの大号泣をかましてしまった。そして、これは私の歌だったのか、と思った。
この詞は勿論知っていた。
ライブで聴いた時にも調べたし、この曲は以前にリリースされた弾き語り音源にも入っているので、その配信歌詞カードでも読んだ。
「好きな人(イコール恋人)」への愛を実感し、幸せを感じ、将来の別れを想像し、今を大切にしようと決意し、出会えてよかったと思う……そんなラブソングだと思っていた。
心が一度決めつけをすると覆すのは難しいもので、長い間この曲は私の中で「よくある恋人同士のラブソング」だった。
しかし出産を経て親になった今、この曲は息子を思う私の歌になっていた。『小さな掌』が実感を伴って響いてきたのはこの時が初めてだった。
そしてもう一つ。「今までの全ての喜びが あなたの前ではこんなに小さく見える」という感覚は、息子が産まれてから本当はずっと私の心の中にあった。
だけど、それでいいのか、その感覚が正しいのか、という感情に流されて無意識のうちに封印してきたものでもあった。
今、息子と過ごす喜びは類を見ないほどに大きい。だけど、息子が生まれる前は当然、私にも他の喜びがあった。
たとえば、カルチャーに触れることで得る喜び。旅先で知らないものに出会う喜び。大切な音楽をライブで聴く喜び。
今までの人生で得た様々な喜びよりも、息子がくれた喜びの方が大きいと言い切ることにはどうしても不安があった。
もっと自分の人生を生きなよ、とか何とか思われるのが怖くて。大切だったものを犠牲にしているのにそれでいいのか、と叱られるみたいで。「子どもと過ごす時間が最大の喜びなんてありきたりな人生だね」と過去の私が言っているような気がして。
だけどこの歌は、この喜びを肯定してくれた。自分の中に沈んでいた感覚を最高の言葉で言語化してくれた。
今までの全ての喜びがあなたの前ではこんなに小さく見えるけど、それでいいんだと思わせてくれた。息子がくれた喜びが一番でいいんだ、と当たり前のことを当たり前に思った。
私の中にあった感覚を掘り起こしてくれた歌。
刹那、なんだか息子が本当に愛しくなって、たまらなくなった。
背中が触れたくらいでびっくりして起きてしまう君。たった30秒離れるだけで私を求めて泣く君。こんなに低い高い高いで笑ってくれる可愛くて愛しい、大好きな君。
ストレスだった息子の行動の全部が、ただただ可愛いもののようにさえ思えてきた。ていうか実際そうなのかもしれない。
こんなにも無垢な存在が、私のようなドブネズミを無条件に愛してくれることへの感謝。それに呼応するように湧き上がってくる大好きの気持ちが、一瞬で私を満たしてくれた。
paioniaは絶対に格好をつけない。
ただそこにあるものを、あるがままに、ただ熱量だけは失わずに歌ってくれる。paioniaが生活と評される所以はこういうところだと思う。
ずっと側にあるものに気付かせてくれる音楽。
もう3年も前になるけど、一人で行った吉祥寺のサーキットでpaioniaを見た。終わりしなに初めてpaioniaを見たらしいカップルが「ずっと聴いていられるね、飽きないね」と微笑みあっていたのが忘れられない。小さいけれど、私の中のpaioniaを一番象徴する出来事だったと思う。
paionia も生活も、「ずっとそこにある何か」にカテゴライズされると勝手に思っている。
この曲が終わった時から、もうずっと息子と遊んでいる。
長々今までの感情を言語化しようとしたが、結局うまく言葉にならない。だけどこの曲と今再会できて本当によかった。
この先生きて行けば辛いことや悲しいことは必ず起こると思う。それらを回避するのは無理だとしても、それが息子のことだったら私は一息ついてこの曲を聴く。
そうすればきっと私はこの子のことをこんなにも大好きだったと思い出すと思う。それで乗り越えられることもあるんでないのかな。知らんけどね。
pre normalって、本当に言葉通りの意味なんだろうな。これからnormalになっていく。だけどpreである今現在もまた日常なんだよな。なんとなくやるせない。
名前のない感覚をそのままプレスしてくれたようなアルバム。一生聴く音楽。こんなに大切な音楽に出会えたのもまた、名前の付け難い喜びです。
『小さな掌』に、このアルバムに、そしてpaioniaに、また勝手に救われた気がする。だから勝手にお礼言っとくね。
リリースおめでとうございます。そして心から、ありがとうございます。
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