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東京オリンピック開会式の「非常に残念」分析

 ロンドン五輪の時には、世界で9億人が観たというオリンピックの開会式。これから、コンテンツ&観光というソフトを成長させようとする意味では超重要なプレゼンテーションの場だというのに、ありゃ、いったい何だったんだ!!!!

 想像するに、電通佐々木氏の退任の後、あの時期から考えても、すべてを白紙に戻すわけもなく、新ディレクターは、その土台を壊さないようなアイディアを少々加えた形で本日のあの表現になった、と考えるのが常套です。そう、木遣りだとか、海老蔵出演は、少なくとも小林氏の新アイディアではないよね。

 総合演出は世界観を要求されます。その最たるものがオペラで古典の中に現代的なテーマを発掘し、その見立てで全篇を時には出演者を全裸にしてまでもひとつの世界を作るわけです。そういえば、CMやコント、テレビのクリエイティヴは、言うなれば短時間の強度であり、世界観は問われないわけですよ。(そもそも、世界観は商品そのものだし)時間軸と格闘して、演出を作り上げていくわけで、そういう才能が今の日本には、いっぱいいて、海外でも評価を受けているのに、このていたらく。


 MIKIKO氏の演出を知る知人が数人いて、彼彼女によると、その内容は相当刺激的でアイディアにあふれたものだったらしく、機会があったら、その封印された企画を見てみたいものです。というか、映像作品にしたらどうでしょ。

 いや、世界観のお題目は示されていましたよ。「多様性と平和の祭典」ってね。ただその多様性が広い会場に、ヴォーギングあり、子供のダンスあり、よさこいソーラン系の音頭ありが、同じ音楽で勝手に踊るって、それお題目をそのまま現場に移しただけじゃないか。平和→ジョン・レノンの『イマジン』って、申し訳ないけどクリシェすぎて、クリエイティヴ的には思考停止ですわ。

 木遣りも、ちょっと問題ありですよ。木遣りは伝統的に男性のみの世界。江戸時代に大坂の女軽業師がはしごに乗った記録や、木遣りも女性だけの連が存在したといいますが、それは特別な女流枠で基本的にそれらは相撲同様、男のホモソーシャル世界。でも、今回の木遣り表現は、真矢ミキの女ヘッドに男が従い、仲良く男女共生ってね。いや、別に良いんですが、木遣りの男伊達の美学はどうするの、という話。これ、相撲ほか、男女混合チームが作りにくい日本の組織に通じる、文化的ミーム問題ですけどさ。

 そして、一番がっくりきたのは、海老蔵の『暫』と、ジャズピアノの上原ひろみのコラボ。囃子方をそろえて花道で『しばらく〜』をキメるその一部始終は、間と静寂とかたちの勝負。そこにあの上原の「とにかく早弾きのウォールプレイ」がなだれ込んできたわけです。ええ〜、ここにどうやって、暫が絡めば良いのか! とひっくり返りましたよ。

 カメラはずっと上原を追っていたので様子はうかがえなかったけど、歌舞伎チームは、このリスペクトのない無茶ぶりセッションに傷ついただろうなあ。日本の古典芸能、楽器と現代ポップスほかのコラボって、最も安直なプロデュースなので、まず私はやらないし、もしも、やるとなったら相当覚悟しないと駄目なヤツっすよ。でも、こういう異種格闘技に感動する御仁も少なからずいるはず。駄目だよ。もっと本質を見ないと!

 個人的に最も嫌だったのが、選手入場の時に両脇で絵の描いてある毛布ポンチョを着て、歓迎するボランティアと思われる人々の有様。もともと、日本人、フリーダンスができない国民ですからね。それが、手をひらひらさせて、お遊戯みたいな幼児的なダンスをずっと踊っている。いい大人の男がソレをやって、日本人目線では「カワイイおじさん」なんだろうけど、目の前を通る外国人男性のマチュアな雰囲気の前では、ものすごーく子供っぽいんですよ。

 占領軍の最高司令官マッカーサーが「日本人は12歳」と言った話を覚えている身にとっては、ホントに人ごとじゃないよ。これ、やるんだったら、日本人お得意の整列して一斉に頭を下げる「いらっしゃいませ」のお辞儀の方が、多様性の文化の表出として、全然ベター。

 ちなみに、素晴らしかった点はただひとつ。森山未来のソロですね。この間のKAATでの岡田利規昨演出の『未練の幽霊と怪物』では、なんと国立競技場の前の建築家、ザハ・ハディドモチーフを踊ったのですが、ソレとコレとの因縁も含めて、やっぱり「動きで空気を制することができる」凄い片鱗を見せてくれました。


8月16日(月)追記:

同テーマでYouTubeでもお話ししました。併せて是非!!

https://youtu.be/xIPNb5wTOmM

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