見出し画像

怒りを越えて、もはや唖然呆然の残念なオリンビック閉会式分析

 さて、オリンピック閉会式。もう何が来ても驚かない体でいましたが、「怒る」どころか、それすらも沸き起こらない低体温の式でしたね。そっかぁ〜、東京音頭ねぇ。開会式でもお馴染みだったあのイージーな「広場でみんなが勝手にジャンルパフォーマンス=多様性」のスタイルは長尺で持ち込まれ、「公園の日常小景」の表現と化す。

 実はこういったノンアイディアの時こそ、もう音楽の力を借りちゃえ! ってんで、音だけ、DJを入れて、とてつもない選曲をぶつけて誤魔化す方法もあるのだけど(昔の小劇場演劇の定石だった、ラストシーンにキングクリムゾンってやつね)、そういう演出の引き出しは、今回のディレクター側に期待できるはずもないわけです。

 だって、佐々木氏は、文春の報道をもとにすると、ディレクターを奪還したわけでしょ? その是非はともかく、それならば「クライアントの言うことは全て飲み込んでその上で出せる最上クオリティ」という広告クリエイティヴの神髄を見せて欲しかったものですわ。

 ボツになった「ウルトラクイズ系マルバツ回答」がそれだった、ということは、彼の問題だけではなく、この国の「文化、アートそして、その根幹であるクリエイティヴ」の在り方、という問題に突き当たります。カネとイイネの量が決定するそれらの評価を含めて。個人的には、カルチャー情報誌ぴあに勤めていたときからもやもやしていた件ですね。「アートは生きるために必要!」って、よく日本の業界人がインタビューで答えてますが、アナタ自身それ本気で実感してますか? っていうね。

 逆にスカパラの生演奏は、選手の入場の時にガンガンに使った方が絶対に良かった。スカのバックビート2拍子は、足取りも浮き立ちますから、大団円の行進には最適だと思うのです。というわけで、今回最も残念だったのは、選手の入場行進曲。競技が終わっての開放感とフリーな気分にフィットしない、時代錯誤で大仰な曲調に、ものすごく違和感を感じたのですが、それが前回の東京オリンピック時に使われた、古関裕而作の「オリンピックマーチ」と分かって仰天。

 SNSで「古さを感じさせない名曲」って騒がれているらしいが、こういう反応にはもうガックリきますね。 その感想って、日本のスーザーといわれた古関のスペックに反応しただけでしょうが。この手の思考いやこの場合感性停止に、またまた、体温が低下し、もはや低体温症。

 どれだけニッポン、過去の高度成長の夢に浸っていたいんだ?!という話ですよ。というか、こういう作曲のチャンスをなぜ、日本いや世界の音楽の才能に楽曲依頼として与えないんだ!!!! こういうことは、コロナと関係なく進行できるトコですよ。

 考えてみれば、バルセロナ五輪では、スペイン国籍でもない、坂本龍一が開会式のマスゲームの音楽を作曲し、自らタクトを振ったというのに、よりによって、またも。昭和ノスタルジー。新しいことを生んでいくリスクを避け、「わかる〜」という承認欲にみちたオタク的心情の結果でしょうね。ともあれ、あの膨大なクリエイティヴ費の結果が、この開閉式。マジで明細見せてほしいものですわ。

 「オリンピック讃歌」の歌唱には、ソプラニスタ岡本知高が起用されました。代表的な歌唱にはクラシック声楽家起用というオーソドックス枠ですね。イタリアならば、プラシド・ドミンゴという。男性が女声に相当する高音域を歌うカウンターテナーは、もはやクラシックの中ではれっきとした一ジャンルであり、演奏家達は別段女装はしませんし、逆にカストラートという黒歴史からの色モノ扱いを避けるところがある。しかし、岡本さんは芸風としてドラァグクィーンに寄せてきている。世界でこの閉会式を観ている多くのクラシック/オペラファンは、これをどう見るかな?!

 さて、次の開催地のパリは、プレPRにどんな映像を出してきたかといえば、これまたあっさりとした、「バリの名所の中をBMXほかが走る」アンド「エッフェル塔の前にメダル選手と人々が集まりパーティー!」という、飛行機で良く見る観光ブロモビデオ並みの平々凡々。前述した音楽の方も全く冴えていない。もちろん、コロナの影響もありますが、もはや、クリエイティヴが開花しにくいオリンピック自体のシステム不全とそれを取り巻く状況の結果が、全世界的に出てきているのではないか? という感じだったなあ。

 パリオリンピックのテーマは、「スポーツを競技場から解放する」ということで、これまんま、アートが90年代から仕掛けていることの踏襲。日本もこれやるべきだったのに、結局、土建屋と不動産のおカネちょうだい、の多勢に無勢。ふ〜。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?