〈Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022〉を観ました

やっぱり、書いておこう。12月12日(土)に行われた〈Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022〉のストリーミングですが、私は24時からの真夜中スタートと、明け方に、これもう一度観た方がいいな、というので、朝6時からの回の2度観を決行しました。

ガン闘病中の中、「この形式での演奏を見ていただくのは、これが最後になるかもしれない」という状況下のコンサート・ストリーミング。個人的にもある時期、非常に親くかつ濃厚に交流していたので(雑誌『ゲーテ』で対談連載月イチでやってたり、お誘いを受けてベルリン国際映画祭に一緒について行ったり……自分としては、今回の試みは音楽という前に、「聴き方」が感情的に固定されてしまうパフォーマンス、なのです。

要するに、現在の坂本さんの病状を考えると、本来は自由なはずのの聞き手の想像力や感情が、もうどうしたって、センチメントに集約されてしまう。カメラが捉える坂本さんの身体、手の動き、眼差しや表情、ペダル、音色の減衰などのピアニズムについて「命」を感応し、考えてしまう。それらは、当然のことながら紋切り型になってしまうので、そこに触れない形で、ストリーミング・コンサートの感想を書いてみたいと思います。

特にワタクシが感じ入ったのは、1月リリースされる「12」の音のアプローチをはじめとして、坂本さんならではの魅力的なメメディーラインやコード感覚の豊饒さを差し置いて、色濃く現れている「自然」について。

音楽は、その本質が人間の感情、感覚に属する「聴いて心を動かされる」系と、心は動かないが、心や知覚があってもなくても関係なく、存在を実感する系(ちなみに、ワームホールという高度物理学を扱った映画『インターステラー』はその示唆に富む名作です)とのふたつがあるとすると、後者の方。西洋では崇高とも、東洋では彼岸とも言われている境地だが、そういったまたこれも文化の紋切り型を避けた上での「自然」についてなのです。

思えば、クラシック音楽の作曲家は、「景色なんか見る必要はないよ。全て私が音楽にしてしまったからね」と弟子に言い放ったマーラーを始め、もちろんベートーヴェンやら、印象派の面々やら、現代音楽では鳥の声に拘ったメシアン、海をはじめとして、草花、樹、砂といった自然に西洋的な「神が創造した秩序」とは違った、そもそも捉えることなど出来ない自然を呼び活けようとした武満徹など、自然をテーマに表現を重ねてきました。

この段で言うと、坂本さんは武満の流れの中にいる人なのですが、彼の音楽を聴いていると、そこに濃厚な人の気配があるのです。もっと言うと、その「人」とは視聴者の私自身。山頭火の超有名な俳句に「分け入っても 分け入っても 青い山」というのがありますが、人間の状態なんぞまったく忖度しない自然それ自体と、人間の心身の何かが溶け合っていくような、もはや常識の彼方にある状態のスケッチ。

これらを強く感じたのは、夜明けと共に試聴した、最終回のストリーミング。そう、たとえ人類が滅亡しても、夜明けは相変わらずやってくるのです。

今、思い出しましたが、ウォン・カーウァイの大名作『欲望の翼』に、それを感じさせられるシーンが一つあります。主人公の男性が、会うことを拒否した実母の邸宅を後に、フィリピンの密林に向かって歩いていくその天涯孤独な背中と、Los Indios Tabajaras(ロス・インディオス・タバハラス)の「Always in My Heart」という曲の掛け合わせが作り出した奇跡の一瞬、ですね。

孤独な存在である人間が、世界を感応しようとしたとき(瞑想なんかではなくても、横須賀線の車窓に流れる風景を見ながらでも、人はそれができる)、そこにあるべき音楽が、現在の坂本さんの作風からは感じられる。

それにしても、新作『20220302 - sarabande』は、いい曲なり。

悲しくて、やさしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?