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【小説】消えないで、憧れのララバイ

1


「は?別にいいじゃん。僕が休みに何したって」

休職中の友達に会うと、まるで言葉遣いが変わっていた。


「おい、どうしたんだよ。そんな言葉遣いする奴じゃねえじゃん」
「いいじゃん、別に。悪いことしてるわけじゃないし」


違う。こんなの、れいじゃない。


礼はコールセンターの同期で、突然1ヶ月前から休職。休職の理由は体調不良らしいが、元気そうだ。大きく変わった様子はない。言葉遣い以外は。

「まあいいや。礼が元気そうで良かった」
「何?誰かに言われて、僕を確認しにきたの?」
「あ、違う。違うよ。お土産」



礼は俺以外に友達がいない。体調不良で休職しているとはいえ、もう1ヶ月だ。さすがに心配で、様子を見たかった。

だけど、礼は気難しい性格で、俺が本音を伝えてもきっと会ってはくれなかっただろう。しかも、冷房なしじゃ耐えられない暑さ。

一昨日にダメ元でチャットを送ったら、返事が来た。

久しぶり
お土産わたしたいんだけど、カフェとかでちょっと話せない?

19:18
無理ならいい
19:20

久しぶり
コーヒーおごるならいいよ

20:08

俺も礼も、素直じゃない。



慌てて、白い紙袋を渡す。会う口実のお土産がポツンと入っている。

「ふーん。ありがとう。旅行したの?」
「まあ、うん」

どこにも旅行なんてしていない。姉ちゃんが先週、俺のアパートへ遊びに来た。空港まで姉ちゃんを見送りに行ったときに買ったお土産だ。仕事以外の時間はダラダラしている俺が、旅行なんて滅多に行かない。

「僕、メロン食べれないんだけど」
「え?あ…知らなかった。ごめん」


お土産のメロンクッキーはテーブルに置かれたけど、お土産の失敗なんかどうでもいい。

礼は『食べれない』なんて絶対に言わない。

むしろ『「食べられない」ですよね?なんで「ら」を抜いたんですか?』とコールセンターの先輩に指摘する奴だ。

さっきも変だ。『いいじゃん』も礼は絶対に言わない。なんなら、わざわざ俺に『じゃんってダサい。僕は言わない』と指摘した奴だ。俺はほぼ毎日言うから、衝撃すぎて忘れるわけがない。


「いいよな、優太はのんきで。もう用事ない?僕そろそろ帰る」
「あ、え…うん。お土産ごめん。また連絡する」

礼はちゃっかり、俺が奢ったアイスコーヒーを飲み干していた。俺のアイスカフェラテは半分以上残っている。

唐突に「いいじゃん」「食べれない」「帰る」なんて言われて、俺は上手く引き止められなかった。聞きたいことが急にドドドッと増えると、なんて聞けばいいのか分からない。

あー、お土産を渡せないなんて予想外。無理して嘘をつくと、いつもこうだ。ろくなことがない。



休職する前日の礼は、上司になだめられていた。

肩に上司の手を置かれ、少し青ざめていたようにも見えた。あの、いつだって毅然としている礼のそんな姿を見たのは初めてだ。

対応した客から何か言われたのか、クレームが入ったのか、体調がどう悪いのか、病院で何と診断されたのか、何も分からなかった。俺は「きつくて休んでる。それだけ」と突き放した礼に、深く聞けなかった。だけ…って。

だけどさ、1ヶ月ぶりに会ったわけだし、もっと話してもいいじゃん。まさか、本当にコーヒーとお土産のためだけに来たのかよ。


とはいえ、人を寄せつけない、いつもの礼はいた。この夏を凍らせるような、冷たい目と言葉。お土産だろうが、嫌いなものははっきりと言うんだよな、礼は。そこが礼の悪いところでもあり、俺の憧れでもある。

でも正直、休職中も通常攻撃されて安心した。そんなに話せなかったけど、メンタルが弱ってるようには見えなかったし、強がってるようにも見えなかった。俺の勘違いかもしれないが。

それに、半袖の黒シャツから出た腕、顔を見る限り、ちゃんと食べてるみたいだ。


とにかく引っかかるのは、言葉遣い。礼はどうしたんだ?

言葉遣いが悪くなったのはなぜだ?1ヶ月休職するほど、仕事で何かやらかしたのか?メンタルの問題か?よほどの病気なのか?

礼に言われたとおり、俺はのんきなのか?気にしすぎなのか?

いやいやいや。気にしすぎじゃねえだろ。礼の奴、何も話さず帰るかよ。待てよ…もしかして体調が良くないのに、無理して来たのか?いや、それならそもそも来なけりゃいい。


でも、まあ、直接聞かなかった俺も悪いな。くそ。なんで帰りの方が悩み増えてんだよ。あー、文句言われて、お土産持って帰って、また汗だくになんのか。面倒くさ。太陽がまぶしいのも、自転車で帰るのも面倒くさい。



コールセンターの仕事は、たまたま2年続いている。

新規部署の立ち上げで、派遣社員を大量に募集していたのが2年前。俺と礼はそのときの同期だ。研修の席が隣で、同い年と知ってからよく話すようになった。

1年後に部署は解体され、俺はパソコン部品のお客様コールセンター、礼はサーバー部門に異動。部署は違うが、今も同じコールセンターで働いている。


礼はスマホゲームが趣味で、仕事の休憩時間も休日ものめり込んでいるらしい。一緒にゲームしたり、仕事帰りにカフェや居酒屋へ行ったりして、職場以外で会う日も増えた。

たまに嫌味を言われるが、礼の本音だろう。俺は面倒くさい言い回しとか、察するとか、苦手だ。礼は意見がはっきりしていて、行動も分かりやすいから、気楽でいい。俺がそう思っているだけかもしれないが。


俺は今年から早番で、遅番の礼とは話す機会が減った。

礼が休職する前、変わったことといえば、電話対応後に少し青ざめていたぐらいだ。その日のうちにチャットを送ったが、返信はなかった。休職の話は人づてに聞いた。


あー、なんで貴重な昼休みに辛気くさいこと考えてんだ。くそ。たった1時間しかないのに。

席が余裕で空いてて、静かに過ごせるのは早番の特権だけど、話す人がいないのは少し辛い。スマホをなんとなく見て、休憩をやり過ごす。特別見たいものなんてない。だから、昨日会った礼のことを無駄に考えてしまう。



ピーッピーッピーッ。

弁当を温め終わったと、電子レンジが知らせている。ピンクの弁当箱を取り出すのは、小柄な女の子。

2週間ぐらい前だろうか。早番の休憩時間に来るようになった。ロングヘアで背が低く、150cmぐらい。いつも1人。手作りらしき弁当を持参している。今日もスカートだ。スカートが多い気がする。

この時間帯は人が少ないからか、あの子が誰かと話すのを見たことがない。どんな声か、なんて名前か、地味に気になっている。チラッと顔を見たら、とにかく可愛い。目がくりっとしていて、3Dモデルみたいだ。

でも、違う部署だし、話しかける勇気はない。初対面でいきなり何を話せばいいんだ。



女の子は弁当を食べ終わり、バッグからスマホを取り出した。連絡先を聞くなんて、夢の夢だ。

急に、女の子はスマホを手に立ち上がった。トイレでも行くのか。いや、あれ?俺の方に向かってる?

「あの、突然すみません」

間違いなく俺に話しかけてるじゃん。え?

「は、はい」
「この、アプリというもので音楽を聴けるらしいのですが、どれを聴けばいいのでしょう?」

可愛らしくも、落ち着きのある声だ。

こんな声なんだ…と驚いてる場合じゃない。『どれを聴く』という質問は難しいな。どれを?

「えーーっと、好きな曲を聴けばいいと思いますよ」
「好きな曲……。あまり音楽って分からなくて」
「昔よく聴いてた曲とかないですか?」
「いえ。本ばかり読んできて、音楽は詳しくなくて」

急にこんな話せるもんか。すげえな。

「このアプリ、ランキングがあるので、ここから聴くといいかもです」
「な、なるほど…ここから。ありがとうございます。急にすみませんでした」
「あ、いえ。全然。このアプリ俺も使ってるので、何かあればまた聞いてください」
「ありがとうございます」


女の子は弁当を食べていた席に戻り、イヤホンで何やら聴き始めた。それにしても可愛いな。アイドルって言われても驚かない。

それにしても、すげえ。話せた。話しかけてくれたのは向こうだけど。まあいいや。


何の気なしにまたスマホを持つと、チャットの通知が来ていた。

昨日はごめん
11:52

礼はこういう奴だ。自分が悪いと感じたら、ちゃんと謝る。

俺もごめん
暑い日にきてくれたのに、、お土産

12:01

いいよ
メロンめったに食べないし知らなくて当然
ありがと
12:03

何かあったらいつでも連絡して
俺もまた連絡する
12:04

わかった
12:04

結局、礼のことは何も分からない。

だけど、今はそれでいいのかもしれない。礼は、愚痴も不満も指摘もはっきり言う奴だ。俺と違って。待ってれば、そのうち休職の理由を話してくれるだろう。

礼が元気そうならそれでいい。お土産を渡すのが目的じゃねえし。そもそも適当に買ったし。また時間空けて連絡してみるか。



礼はスマホゲームが好きで、「これは課金でもらえるアイテム」と誇らしそうに、楽しそうに前話していた。

俺はゲームの中のアイテムを強くするぐらいだったら、実生活のアイテムを増やしたい。もちろん、礼には伝えていない。ボコボコに詰め寄られる。


俺は音楽を聴くのが好きだ。でも、そんなに詳しいわけじゃない。

好きなアーティストは何組もいるけど、ライブに行こうとか、グッズを買おうとかはあんまり思わない。いろいろと面倒くさい。行ったライブの大半は、誰かに誘われたのがきっかけだ。

最後にライブへ行ったのは、確か3年前。当時の彼女と行った野外フェス。珍しく俺から誘った。雨でもフェスを全部楽しみたかったのに、途中から座り込んで「もう帰りたい」とつぶやく彼女にイライラした。思い出すだけで面倒くさい。


特別、これといった趣味はない。特技も得意なこともない。やりたい仕事もない。

音楽もゲームも漫画も、それなりに好きだ。でも、何かにのめり込んだりもしない。のめり込むと面倒くさい。お金も時間もかかる。

のめり込むと、人間関係が広がりやすい。朝の情報番組か何かで、悩みの1位は人間関係と言っていた。分かる。何よりも面倒だ。それなのに、礼みたいに何かにのめり込む奴は世界中にいる。面倒くさいことを自ら増やすなんて、俺にはよく分からない。感心する。


今は家でテレビを見ているが、毎週欠かさず見る番組はない。テレビもSNSも動画もなんとなく見て、なんとなくゲームして、友達からチャットが来たら返して、眠くなったら寝る。そんな一人暮らしの毎日。

俺から友達に連絡するなんて、帰省前ぐらいだ。だから、今連絡する奴は礼しかいない。その礼ともあまり連絡できなさそうな状態で、俺はいよいよやることがなくなってきた。

早番だって、誰もやる人がいないから引き受けた。別に何時だっていい。コールセンターもたまたま続いているだけだ。やりたいわけじゃない。


でも、あれだな、今日あの女の子と話せたのは嬉しかったな。あ、しまった。名前聞きそびれた。カッコ悪。礼に話したら「やっぱり、のんきだな」とか言うんだろうな。



2


コールセンターでは基本的に、下の名前を呼ぶ。2回目に話したときに「サラさん」とスムーズに言えた。下の名前を呼ぶ制度に初めて感謝した。

女の子の名前は、中森サラさん。あれから、お昼が一緒になると音楽のことを話すようになった。


サラさんの趣味は小説を読むこと。音楽だけじゃなくて、漫画や映画もほとんど触れてないし、世間で話題になっている動画とか食べ物とかもよく知らないらしい。

コールセンターは服装自由。でも、サラさんはかっちりした白いシャツやポロシャツで、いつも真面目そうな服装だ。そして、膝ぐらいのスカート。

「部署で音楽の話題が挙がったときに、ついていけなくて」と真面目さが垣間見えて、服装と同じだなあと思った俺は不真面目だろうか。


サラさんは週に何度か早番で、お昼を一緒に食べるようになった。大きな進歩だ。

俺が好きなアーティストを教えたり、サラさんから曲の感想を聞いたりして、1時間はより短くなった。楽しい時間に限って、早く過ぎる。

「この前教えてくれたコロンビアブレンドの曲、歌詞が切なくて、旋律もとても美しかったです」なんて、俺が作った曲を褒められたみたいで嬉しかった。教えるって嬉しくなるもんだな。


サラさんと話すと、俺が考えもしないことを掘り起こされる。

「アプリに何百万曲もあるのに、皆さんはどうやって好きな音楽を探すのですか?」

考えたことないけど、そうだよな。音楽を聴いてこなかった人は、自分はどんな音楽が好きか分かんないよな。

俺は広く浅く聴くタイプで、スマホで音楽を聴けるのは単純にありがたい。せいぜい、便利だな程度しか思ってなかったけど、サラさんみたいな人はイチから探すんだよな。


韻もよく分からないらしく、「こんなに滑らかな文章があるのですね」と言われた日も驚いた。韻なんて今や普通だし、まあ、言葉選びに驚くときもあるけど、『滑らか』か。

「ここの歌詞はどういう意味なのですか?」「なぜこのタイトルか分かりましたか?」みたいな質問は何十回も来ている。知っていれば答えるし、知らなければその場で検索して一緒に驚いたり、話し合ったりする。


サラさんは世間知らずなところがあるけど、そこがむしろ新鮮で、たぶん俺は夢中なのだろう。これまで出会った女の子とも、職場の女性陣とも、姉ちゃんや母親とも違う。

音楽に対する反応、新鮮な会話、くるくると変わる表情、優しい声、ロングヘア。退屈な俺には、ちょうどいい刺激なのかもしれない。

胸を張れる趣味も特技ない、別に音楽に詳しいわけでもない俺が、サラさんと音楽の話をする時間はとても楽しい。ギターとか弾けたらなあ。もっとカッコいいんだろうな。まあ、面倒くさいし、今更やらないけど。


・ ・ ・


「ねえねえ、ミカちゃん知ってる?山鳥やまどり神社の話」
「あ、カオリさん、知ってます!お参りした人が宝くじに当たったり、急に病気が治る神社ですよね」
「そうそう。行ってみたくない?」
「行きたいです!」
「今度さ、このチームで行かない?ねえ、優太はどう?行かない?」


最近SNSやニュースで話題の、山鳥神社。お参りして願いが叶う人が続出してるらしい。俺は正直どうでもいい。願い事とかないし。どうせ嘘だろ。

今日は祝日で、お客様センターにほとんど電話は来ない。男は全員休みで、厳しめのリーダーは休憩中。

俺以外の2人はしゃべりまくってるし、男はいないし、なんか肩身が狭い。


「いや、俺、別に興味ないんで」
「えー、優太さんも一緒に行きましょうよぅ」

ミカさんは、数ヶ月前に入社したばかり。この部署では1番年下。こういう人懐っこいところが部署からもお客さんからも好評で、コールセンターに向いてる人のお手本みたいだ。


「ミカさん、何かお願い事あるんですか?」

興味ないけど、ここは質問でやり過ごしたい。休みの日に職場のメンバーと過ごすなんて、面倒くさすぎる。先輩のカオリさんは話し好きで、特に面倒くさい。

「もちろんです!5億円の宝くじ!」
「わ、ミカちゃん、私と一緒」
「じゃあカオリさんと私で、10億円準備しなきゃですね」
「ふふっ。そうね。当ててさ、さっさと退職しよ」


俺って、あれだな。つまんねえ人間だな。冗談だとしても、ミカさんとカオリさんが言った5億にさほど興味がない。俺がそんなにもらっても、使い道がない。使い切れない老後資金が増えるだけだ。

「でもでも、神社の近くで幽霊出るんですよね?幽霊は嫌だなぁ」
「幽霊は何かの見間違いでしょ。ビニール袋とか。それか加工とか」

そう。山鳥神社付近で、幽霊の女の人の目撃情報もある。俺はそれもあって行きたくない。ライブカメラの映像を、うっかりテレビで見てしまった。幽霊なんていないと思うけど、もし憑かれたら嫌じゃん。


・ ・ ・


サラさんが話しかけてくれた日から、2ヶ月経った。連絡先を交換し、毎日のようにチャットする仲にまで発展した。


職場の休憩時間以外で話すことは、基本的にない。たまにトイレ付近ですれ違ったり、帰りのエレベーターで一緒になったりしたときに話すぐらい。

一緒に帰ることも、休みの日に一緒に過ごすこともない。家族や恋愛の話はお互い、なんとなく避けている。部署の話も滅多にしないし、コールセンターあるあるも言わない。

サラさんは音楽にハマりにハマったみたいで、昼休憩でもチャットでも、音楽の質問ばかり来ては、教えた曲の感想ばかりが届く。

誰かが何かにのめり込むきっかけを、俺が作ったわけだ。なんか、すごくね?別に面倒くさくはない。あんなに喜んで、あんなに可愛い顔を見れるなら、多少は頑張る。そう、俺は単純だ。


・・・

サラさんからライブに誘われたのは、もう半袖じゃ寒くなった頃。

来月、三七四五みなしごのライブがあるらしいです。
山鳥文化ホール
一緒に行ってくれませんか?
19:52

戸惑ったが、別に断る理由はない。サラさんとライブなんてそりゃあ行きたいし、三七四五がこの辺でライブするなんて珍しい。

いいですよ、行きましょー
19:57

ありがとうございます!嬉しいです!
19:58


これはデート……だよなあ。

サラさんが目を輝かせていると、会わなくても分かる。嬉しいときは本当に嬉しいと、絵文字みたいに分かりやすい。顔から全力でにじみ出ている。

話すときもチャットの言葉もわりと短いんだけど、嬉しいときは『!』が何十個もあるように感じる。分かりやすくて、可愛い。


ライブに行くのは初めてで、とても嬉しいです!
20:00

山鳥文化ホールは何度か行ったことがある。山鳥神社が近いから、ついでに行くのもいいかもなあ。バスの通り道だったはず。

検索すると、確かに11月9日19時から三七四五のライブがある。

ライブは夜からなので、お昼に山鳥神社でお参りとかどうですか?
近くにいろいろお店もあるみたいだし
20:07

うっわ、もう提案して、なんか恥ずかしいな。まあいいか。もう送ったし。

確か、今人気の神社ですよね。部署の方が話していました
20:10

ライブ会場の周り、神社と公園ぐらいしかないし
まあ暇つぶし程度に

20:12

数分で返事が来ていたチャットが、そこから途切れた。

何か気に障ったか?暇つぶし…なんて書かないほうが良かったか?いや、時間的に晩ごはん作ってるとか。考えすぎか。とりあえず待っとこう。



寝落ちしてしまい、サラさんの返信に気づいたのは翌朝だった。

そうですね、神社も行きましょう
22:02


・ ・ ・


山鳥神社の幽霊の目撃情報は、11月に入っても相次いだ。

ライブが刻一刻と迫る中、よく分からない幽霊よりも、俺は現実をただただ気にしていた。

サラさんとは職場以外で会わない。コールセンターは私服だけど、俺も多少はきっちりした服装にしている。

プライベートで遊ぶ初めての日だ。というか、実質デート。11月は気温も難しい。ダウンジャケットは早いか?パーカーはカジュアルすぎるか?靴だけは1軍の白いスニーカーに決めた。



最後のデートは元カノと。女性と2人きりで出かけるなんて、3年ぶりだ。

ただでさえ恋愛は面倒くさいのに、20代後半になると嫌でも結婚がよぎる。親戚づきあいとか面倒くさいし、子供がほしいなんて考えたことない。


サラさんと過ごす時間はとても楽しい。職場の愚痴も、誰かの悪口も、一切言わない。元カノとは全然違う。

付き合ったら、もっと楽しいかもしれない。2人でいろんな話をして、いろんな物を食べて、喜ぶ顔を、驚く顔を、もっともっと見たい。

結婚して、子供はいなくていい。まだ付き合ってもいないのに、結婚なんて早いけど。

恋人になったら、今の関係は崩れるだろうか?告白なんてしたら、気まずいか?いや、ライブに誘ってくれるなんて、脈アリだろう。

でも、あのサラさんだ。単純にライブに行きたいだけ…の可能性もある。大いにある。やめとくか、告白なんて。部署は違うけど、同じ会社にいる。断られて、気まずくなって、もう話せないなんて嫌だし。




3


サラさんに誘われたのが昨日に思えるほど、時間は素早く過ぎた。ほとんどの時間が仕事だったのが難点だが、どうでもいい。今日はライブ当日。

バス停で待ち合わせ。10時は少し寒い。

あれだけ悩んどいて、マウンテンパーカーに薄手のセーター、ジーンズ、スニーカー、小さめのショルダーバッグ。無難すぎる。キャップを被るか、ギリギリまで悩んだ。


秋晴れという言葉は、今日を指すのだろう。雲もなく、清々しく、風がちょうど気持ちいい。昨日のクレームも、眠気も、ばっさり吹き飛ぶ。

告白するか、結局決めてない。出会って数ヶ月で告白していいのか、分からなくなってきた。


数分後に到着したサラさんに、最初気づかなかった。ポニーテールも、ジーンズとスニーカーを見たのも初めてだ。見慣れたベージュのコートがかすむ。

「遅れてしまってごめんなさい」
「いえ、時間前だし、全然。俺もさっき来たばかりで」
「今日がとてもとても楽しみで、待ちきれなくて、早く着いてしまって、この辺りを3周してしまって」

サラさんから汗は見当たらなかったが、今日を楽しみにしているという熱気はすごく伝わってきた。そして、ポニーテールの威力。可愛いすぎるだろ。


バスは間もなく到着。余裕で座れた。

ほぼ終点の山鳥神社まで、ひたすらバスに揺られる。体温が分かりそうな近距離で、1時間。緊張しない奴なんているのか?


火曜日だし、人は少ないだろうと思っていたが、どんどん人が増える。待ち合わせのバス停から2つ先で、満席になった。さすが話題の神社。

当然のごとく子供はいなくて、俺たち2人以外は高齢者か40〜50代の、夫婦や友達らしき人たち。わりと賑やかな車内に紛れて、1番後ろに座った俺たちも話に花を咲かせる。

数週間、「ライブで何の曲を披露するのか楽しみですね」と似た言葉を何度も聞いた。当日のバスの中でもサラさんは話す。俺と1歳しか変わらないのに、ここまで無邪気に楽しめるのは羨ましくもある。


・ ・ ・


ライブに行くことが決まって、三七四五のアルバムを聴き直した。

三七四五はメインボーカルが女性、ギターとベースとドラムは男性の、4人組バンド。

いわゆるロックサウンドなんだけど、たまに琴とか三味線みたいなギターフレーズも入っていて、いかにも日本ならではというバンドだ。8枚目のシングル『空蝉うつせみ』がスマッシュヒットして、曲を聴けば知っている人は多い。


全部の意味を分かるわけじゃないが、俺は三七四五の歌詞も好きだ。

ミユコが書く歌詞はよくある話のような、夢のような、日常とファンタジーのちょうどいいバランス。なんか儚くて、胸を締め付けられる。それなのに共感もするし、励まされる。不思議だ。


もともと好きなアーティストで、散々聴いてきた。でも、俺はこれまで感想をまったく言語化できていないかもしれない、とサラさんの感想で思う。

「音にも歌詞にも日本の要素が盛り込まれていて、歌声もギターも、英語も日本語も見事に噛み合っていて、感動しました」

「『雨が降らない街』の歌詞は、一体どのような生活をすれば思いつくのでしょう。私は何百冊も小説を読みましたが、こんな言葉は思いつきません」

「この歌詞でタイトルを『空蝉』に決めたなんて、発明です。私なんて絶対に考えもしないです。音も泣きそうで…すごいです」

こうして聞くと、確かにそうだよなと思う。でも、それより、サラさんが歌詞に感動するように、俺はサラさんの言葉に感動する。



バスに揺られながら、サラさんの話に耳を傾ける。いつもと大して変わらない彼女。

一方の俺はいつもより口数が少ない。自分でも分かる。テンション上がりっぱなしのサラさんに返す言葉がすぐには見つからないし、何より距離が近すぎる。

三七四五の歌詞のように、日常とファンタジーの狭間を生きている気分だ。


「今日が終わったら、きっと抜け殻で、大晦日のような気分です。生の音を浴びて、満たされて。本当に楽しみです」

そう聞いたぐらいのタイミングで、バスは静かになった。散々話に花を咲かせまくって、枯れたらしい。

サラさんも合わせるように静かにして、外を眺め始めた。目の前でポニーテールがふわふわと揺れる。


遠くの山の一部は、黄色と赤。サラさんは山を見ては「ほんのり色づいていますね」、橋の上から川を見ては「たくさんの蝶がいるみたいに、キラキラ光っています」と教えてくれる。

俺は「そうですね」とか「川、キレイですね」とか単純なことしか言えなくて、サラさんとの語彙力の差に少し落ち込む。今に始まったことじゃないが。小説を読む習慣は俺にはなく、本はせいぜい漫画ぐらいしか読まない。

サラさんとの仲を深めるために、もっと上手く話したい。上手く伝えたい。後で、おすすめの小説とか聞いてみるか。



およそ1時間後、山鳥神社に着いた。

予想以上の人。うっわ。平日でもこんなに人が来るのか。祝日でもないのに。まああれか、出かけるにはちょうどいいか。

参道には団子屋や土産物屋などが立ち並び、サラさんは目を丸くしてあちこち眺めている。

「サラさん、何か食べたいものはありますか?」
「いえ、ないです。優太さんはどうですか?」
「俺もないです。どこか適当に入りましょうか」
「はい」

和食が多く、どこも似たり寄ったり…って感じか。昼前で、何店舗か行列ができ始めている。


行き先と待ち合わせだけ決めて、それ以外はあまり考えていなかった。デートってどこまで決めて出かけてたか、もう覚えていない。

サラさんは「何か会場で必要でしょうか?」とライブの心配ばかりしていた。俺は俺で、服や告白のことばかり考えていた。お互いに楽しみに楽しみを重ねて、今日を迎えたのだ。


「ここにしましょうか。すぐ入れそうですし」
「はい」

職場以外で初めて一緒に食事をするのに、何も決めていなかった。でも、サラさんは何も責めず、俺の提案をすんなり受け入れた。こういう居心地の良さも、とても好きだ。サラさんが何かを悪く言うなんて、一度もない。


うどんやそば、丼、天ぷら。ザ・和食のメニュー表から、俺はカツ丼とうどんのセット、サラさんは天ぷら定食を頼んだ。

「天ぷら、好きなんですか?」
「あ、えっと…揚げる音を聴きたいんです」

揚げる音を聴きたい。すごいな。サラさんはいつだって新鮮な会話で、全然飽きない。

「揚げる音?」
「何と言えばいいのでしょう。カラカラ、パチパチと弾ける音。賑やかで、楽しそうで、華やかで。私の周りにはない音です」

サラさんの両親や幼少期について何も知らない。天ぷらの音が周りにないなんて、悲しく聞こえる。

「そうですね。楽しそうな音ですよね」
「あの音を聴くために、天ぷらを頼んだんです」

厨房から聴こえる、天ぷらを揚げる音。ほぼ席が埋まった店内で、おそらく俺たちだけが耳をすませている。

天ぷらを揚げてるときの音なんて、別に気したことがない。最後に天ぷら食べたのっていつだっけ。あ、礼と駅で天丼食べたな。あれは今年?


やがて運ばれた料理を、サラさんはバスから川を見ていたときのように、まじまじと見つめている。癖なのだろうか。まあ海老は大きめだけど、普通といえば普通の天ぷら。

俺が待てずに「いただきます」と言うと、慌てたように彼女も「いただきます」と言い、食べ始めた。

「この、サクッと、ザクッとする音、とても良いですね」と嬉しそうな彼女を見て、俺はこういう毎日を送れたらいいなと思った。


食べながら、普段はしない話をした。

サラさんは、考えていることも好きなことも独特。まるで俺とは違う星にいるみたいだ。

「横断歩道で、誰かと青になるのを待つ時間が好きです」
「雨上がりのアスファルトにできる水溜り、空をぎゅっと閉じ込めたみたいでした」
「サイダーのパチパチする音はとても落ち着きます」

ああ、こういう人が小説家とかミュージシャンになるんだろうな。感性が俺とは全然違う。


サラさんが読んだ小説の話もした。俺は過去のライブの話をした。俺はサラさんが教えてくれた小説を知らないし、サラさんは俺が教えたバンドを知らない。お互いに教えながら、質問しながら、時間はどんどん過ぎた。

会話しながら、やっぱり、今日どこかのタイミングで告白したいと思った。この、何ものにも代えがたい緩やかで幸せな時間を、もっともっと過ごしたい。



店を出ると、参道には明らかに人が増えている。飲食店は軒並み行列で、行こうと思っていた団子屋は人だかり。

一応神社に向かったが、あまりの人の多さにうんざりだ。途中から全然前に進めない。

「サラさん、行列に並ぶの平気ですか?その、俺は正直苦手で」
「実は私も苦手で」
「俺が提案しててアレなんですけど、この後ライブ会場に移動しないといけないし、神社はまた今度にしませんか?」
「はい。私もそのほうが嬉しいです」


山鳥神社は、もうどうでもいい。まあ、テレビで見た限り、他の神社とそんなに変わらない。それより、このまま2人で話したい。

俺が女性と長話するなんて、他に姉ちゃんかカオリさんぐらいだ。サラさんは本当に貴重な存在で、だから告白は迷うけど、でも、恋人になって、もっともっと話したい。休みの日も、2人だけの夜も、早起きした朝も。


ライブは18時開場、19時開演。

神社から会場まで、バスで20分かかる。まだ13時を過ぎたばかり。移動するには早いが、とにかくここから出たい。静かな場所に行きたい。

「だいぶ早いんですけど、会場の近くに移動しませんか?」
「はい。ここは人が多すぎますね」
「あ、お土産だけ見ていいですか?」
「もちろんです」


俺は冷静さを完全には失っていなくて、礼のお土産をちゃんと思い出した。

礼とは夏に会ったきりだ。たまに連絡はするが、返事が来ない日もある。やっぱり、体調があまり良くないのかもしれない。

理由もなく会おうと誘うのは照れくさいし、用もないのに会うとまた鋭い言葉に刺されそうで嫌だ。それに、この前お土産を突き返されたのはなんか悔しいから、また意地でも渡してやろうと思う。

「お土産、何がいいんだろう」
「誰へ渡すのですか?ご家族?」
「友達に渡そうと思って」
「お友達ですか…どうしましょう。これはどうでしょう?」

鳥の形をした、山鳥神社まんじゅうか。無難は無難でいいけど、礼は「ダサい」とか言いそう。考え過ぎかもしれないが。

「うーん…なんだろう、もう少し、オシャレな感じがいいかなあ」
「オシャレ……。こちらはどうですか?」

鳥型の透明なビンに、赤や緑や黄色のかりんとうが入っている。さつまいも、ほうれん草、にんじん。チーズは珍しいな。悪くない。メロンもない。

「うん、良さそう。これにします。サラさんも何か買いますか?」
「いえ、私は何も」
「じゃあ、ちょっと買ってきます」


レジに並んでいる間、サラさんはまた何かをじっと見ていて、「お待たせしてすみません」と呼びかけても、すぐには気づかなかった。

ステンドグラス風のしおりを持ち、角度を変えては、小さな体が大興奮していると分かった。ピンクや赤の大きな花が、小さな手の上でキラキラと輝いている。

サラさんは美しい物を見ると、たちまち子供のように夢中になる。俺はもう失ってしまった、どこかに置いてきた感覚。


「サラさん、それ、貸してください」

不思議そうな彼女の顔を横目に、すぐレジへ向かった。


「プレゼントです」と伝えた途端、彼女はこれでもかと目を開いた。言葉をしばらく失った後、「ありがとうございます!」と大音量でお礼を言ってくれた。視線が刺さりまくったのは言うまでもない。


・ ・ ・


サラさんはしおりを見てはバッグにしまいこみ…をバス停でもバスの中でも何度も繰り返した。そこまで喜ぶとは思わなかった。すっごく嬉しいし、微笑む彼女は本当に可愛い。しかも今日はポニーテール。俺の方が喜んでる。

またバスに揺られ、今度は20分。

「近くに大きな公園があるので、行きましょう」
「ぜひ」

急な提案だったが、またもや通った。今日がうまく進んでいると信じたい。



公園の入り口に移動式カフェがあり、それぞれ紙コップを手にした。しばらく歩くと、大きな池。

この公園には、たくさんの鳥がやって来る。冬には渡り鳥が来ると、テレビで知った。

池にはカモが10羽ほど、シラサギが1羽いる。俺たちと同じ赤い紙コップを持った人が、何組か池の周りのベンチに座っている。

続くように、俺たちも大きな樹がそばにあるベンチに座った。


「しおり、ありがとうございます。何とお礼を言えばいいのか」
「いえ、そんな大したものじゃないし、気にしないでください」
「私にとっては大したものです。まさかプレゼントだなんて」

これはもしかして、告白するなら今か? 急すぎるけど、雰囲気いい感じだし。今日はいろいろスムーズだし。

「実はその……」

うわー、でも断られたらこの後気まずいな。ライブ前だし。やっぱりやめとくか。

「どうしたんですか?」
「えっと、やっぱり、何でもないです。すみません」
「深刻な悩みごとですか?私でよければ聞きます」

困ったな。でも、来年30歳だし。このまま告白しないとかダサいな。

「実は、実はサラさんのこと、好きです。良かったら付き合ってください」

言った。言った。言ってしまった。


サラさんは微動だにせず、俺を見たまま固まってしまった。ポニーテールがそよ風で揺れ、名前の知らない鳥の鳴き声が響き渡る。


「あの、今返事しなくていいです。急にすみません」
「あ、えっと、あの、驚いてしまって。ごめんなさい。嬉しいです。ありがとうございます」
「ほんと、急にすみません。断ってもいいので」
「いえ、その、お付き合いしてみたいんですけど、その……付き合ったことがなくて。何と言えばいいのでしょう、自信がなくて」

こういうとき、告白した側はどうしたらいいんだ。検索するわけにもいかないし。付き合いたいけど、無理に付き合うのもなあ。

「じゃあ、ゆっくり恋人になるのはどうですか?」
「ゆっくり?」
「そうです。ゆっくり。今日みたいに少しずつ会う時間を増やして、ゆっくり。俺はサラさんと話したいんです」
「嬉しいです。私も優太さんと話したいです。えっと…それなら、ぜひ」
「ありがとうございます。じゃあ、改めてよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」



ライブの開場時間が迫るギリギリまで、俺たちは話し続けた。恋人同士になっても、まあ、すぐには何も変わらない。

告白後も、三七四五が演奏する曲を予想したり、今日を迎えたことを喜んだり、鴨の足が水中でバタバタしているのを見たり。

『ゆっくり』と言ったとおり、俺たちはゆっくりでいい。

サラさんは「同じ部署の人の提案でポニーテールにしたんです」と打ち明けてくれた。真面目に受け入れるところも可愛い。

しおりがとにかく嬉しかったらしく、また取り出しては、太陽にかざしたり、池のほうに向けたり、心底楽しんでいた。ステンドグラスの牡丹は、青空によく映える。


「手をつないでみたいです」とはっきり言う彼女を、とても愛おしいと思った。柔らかく小さな小さな手を、そっと握った。力を入れたら怪我させてしまいそうで、久しぶりに何かを怖いと感じた。

ゆっくりと歩く俺たちを夕日が照らし、恋人のはじまりをあたたかく見守ってくれているようだった。



4


ライブ会場は、開場を待つ人でぎゅうぎゅう詰め。グッズ売り場は遠くから何も見えず、スタッフの人たちが大声で誘導している。

サラさんは面食らったようで、小さな体をさらにきゅっと小さくしていた。初めて訪れたライブ会場をキョロキョロと確認していて、上を見ては右を見て、左を見て、鳩のように見えた。


俺たちは1階席の後ろから3列目、中央。わりといい席だ。

ステージは暗幕で隠され、会場は待ちきれない空気が漂っている。三七四五と書かれたTシャツを来ている人が、何人もいる。

今回のツアーは『元気なうちに全国を回りたい』とミユコが提案したらしい。ライブ前のインタビュー記事で読んだ。多くの人が、メンバーの病気を推測。一部地域ではすぐにチケットが完売した。


開始およそ10分前。ギターやベースのサウンドチェックが聞こえ始めた。

サラさんは「こんなに何かを待ちきれないと思うのは、初めてです。今日は本当にありがとうございます」といつもより少し大きな声で話し、両手を胸に置いている。

今日だけで、何度「ありがとう」と言ってくれただろう。恋人になった今、俺のほうがありがたいのに。


照明が少しずつ落ち、非常用の照明に布が被せられ、ほぼ真っ暗になった。間もなく暗幕が開き、観客がずわっと立ち上がる。慌てて俺たちも続いた。

「サラさん、想像よりもずっと大きな音がしますよ。楽しみましょう」
「はい。楽しみましょう」


三七四五の4人が舞台袖から登場。

ステージの後方には巨大モニターがあり、メンバー紹介の映像が流れている。スパイ映画のオープニング仕立て。かっけー。

自然と拍手が沸き起こり、メンバーの名前を叫ぶ声が飛び交う。

MCはなく、いきなり演奏がスタート。こんな田舎には相応しくない、ゴリゴリのギターが会場いっぱいに鳴り響く。熱くなり、一気に鳥肌が立つ。

すっとサラさんを見ると、俺が見たどの目よりも目を見開き、また固まっていた。一瞬でライブの虜になった彼女と、またライブに行きたい。まだ1曲目すら終わってないけど。


三七四五は立て続けに演奏し、ミユコの声はすこぶる調子良く、ギターもベースもドラムもひたすらにカッコいい。曲に合わせた映像や照明も凝っていて、どこを見たらいいのかもう分からない。

なんだろな、ライブのこの感じ。間違いなく今の現実なんだけど、ここにいない感じ。見てるんだけど、見ていない感じ。忘れてたな、この感覚。


ミユコがMCを挟んだのは、7曲目の後だった。

「ライブ久しぶりで、嬉しくって、7曲も続けて歌っちゃった。みんなー、今日は来てくれてありがとー。ついてきてるー?」

満席の会場から、ぐわあっと歓声が上がり、俺も思わず叫んでしまった。サラさんは小さな手で精一杯拍手をしている。


「次の曲は知ってる人も多いかな?知ってたら一緒に歌ってねー!」

イントロが流れた瞬間、サラさんはすぐに『空蝉』だと気づき、俺のほうを見た。目が合って、頷いた。

『空蝉』は俺がサラさんに最初に教えた、三七四五の曲。教えた翌日の昼休憩に「イントロのギターから鳥肌が立って、カッコよくて」と、自分と同じぐらい小さな女性の歌声に興奮した彼女を、反射的に思い出した。

アップテンポだから腕を上げたり、手拍子したりする観客が多い中、彼女は胸に両手を置き、じっと聴き入っていた。

ミユコが客席にマイクを向けると、俺は大きな声で歌った。最初はただ聴いていたサラさんも、最後のサビで少し歌っていた。恥ずかしそうに歌う彼女も、また可愛いなと思った。俺はいつだって単純だ。


ライブはこれでもかと盛り上がり、今が秋だと忘れそうだ。背中も脇も汗ばんでいると分かる。やっぱりライブ楽しいな。久々だし、彼女と一緒だから余計に楽しい。

サラさんは耳を塞ぐこともなく、終始ステージに釘付けだ。一緒に来られて良かった。


「次が最後の曲です。知ってる人も多いと思うけど、私たちはアンコールしません」

会場からはお決まりの「えーー」が渦巻く。メンバーの名前や三七四五と叫ぶ声が、一段と大きくなる。


遮るように、ミユコは話し始めた。

「えっとね、私ね、最近ね。人生もそうだと思ったの。人間が死んでも、アンコールってないでしょ?でね、なるべく人生に後悔がないようにしたいって思ったの。だからアルバムを発売したわけでもないのに、今回のツアーを決めて、今日ここにいます」

拍手が巻き起こる中、俺は後悔も人生もペラッペラな自分が恥ずかしくなった。三七四五はいつだってカッコいいんだよな。

「メンバーも私も、元気なの。ほんとに。心配させちゃってごめんね。長年お世話になったエンジニアさんが昨年亡くなって、いろいろ考えちゃって」

エンジニアのことは、初日のライブで話したらしい。ネット記事のタイトルで知った。ライブの内容は知りたくなかったから、記事は読んでいない。


「ここにいる皆も、なるべく悔いなく。ね?最後まで精一杯楽しんでねー!じゃあ最後に聴いてください。『憧れのララバイ』」


もうどうだっていいんだ
自分とか愛とか夢とか
ただ優しく願うよ
傷口が癒えるよう 

雨上がり 悪い夢を浮かべて
一緒に眺めてようよ
太陽は眩しいけど
きっと消してくれる

それから ララバイ おやすみ世界
僕らいつだって会えるよ
それから ララバイ おやすみ世界
月も疲れて寝ているよ

『憧れのララバイ』はアルバム『サーカス』の最後の曲だ。5枚目だったかな。名盤で24〜25歳ぐらいのときに惚れ込んで聴いた。サラさんにも教えて、「最後の曲がとても好きです」と気に入ってくれた。


いろいろが面倒で
終わらせたくもなるよ
ああ 憧れの道にはいない
僕らに何ができる

アスファルトで枯れた花に
同情してしまうよ
世界を包むほころ
傷つくから弱いよ

歌うよ ララバイ はかない願い
隠れて泣いたっていいよ
歌うよ ララバイ はかない願い
またね 電気消すよ

サラさんが突然下を向いた。俺は確認しなくても、涙が見えた。2番直後のギターソロ、泣いちゃうよな。分かる。俺の涙は必死で止めた。


ああ あの道を選べば 憧れに乗れたのに
ああ いつも間違ってしまう 螺旋階段にいる
また 危機をさばく日々

それから ララバイ おやすみ世界
僕らいつだって会えるよ
それから ララバイ  おやすみ世界
月も疲れて寝ているよ

歌うよ ララバイ はかない願い
隠れて泣いたっていいよ
聞こえる ララバイ 満たない世界
道は続く 憧れを背に

ラララ ラララ ラララ…
ラララ ラララ ラララ…


すべての演奏が終わると拍手が巻き起こり、ミユコは大きく手を降って何度も「ありがとー」と叫んだ。三七四五の4人がステージから消えると、ステージのモニターにはツアータイトルが映し出された。

あんなに音楽に夢中だった時間は終わり、帰る人で溢れる。この切り替えの早さは、昔からどうも慣れない。


狭い通路はぎゅうぎゅう。どうせすぐには帰れない。俺たちはまた座り、余韻に浸った。浸りたかった。

「素晴らしかったです!」と、彼女は「!」を何億個も装飾して話し始めた。

じっくりとフレンチのフルコースでも味わったかのように、サラさんはさっきのライブで感じたことを、一つずつ丁寧に話してくれた。

ミユコの小さい体から出てくる力強い声、お腹に響く楽器の音、映像をいつ見たらいいのか分からないこと、拍手したこと、MCに泣いたこと、一緒に歌ったこと。

会場のスタッフから「すみません、もうすぐ閉めるので」と声をかけられるまで、彼女の声に耳を傾けた。



外はもう冬のように寒くて、会場との温度差にしらけそうだ。あの熱気をまだ感じていたいのに。

会場付近はまだ人混みで、駐車場もバス停もライブ帰りの人で溢れている。

「終わってしまった」とつぶやく彼女の冷たい手を握り、俺は「また一緒にライブ行きましょう」と伝えるのが精一杯だった。

「はい」と笑顔で返事してくれたが、ライブが終わった今、彼女にどんな言葉が相応しいのだろう。



満席の最終バス。車内では、三七四五の話ばかり聞こえる。

結構朝が早かったし、まあまあ歩いたのに、サラさんは「2時間も全力で歌うなんて」と言って興奮しては、「会場の皆さんと歌えて、とても幸せでした」と言って涙を浮かべた。

どんな言葉をかければいいか困りつつ、バスの中で表情のジェットコースターを繰り広げる彼女に驚く。どこにそんな体力が残ってるんだ。

俺はあくびを懸命にこらえながら、彼女の話にちょっとだけ返事をしては、頷いた。



5


礼に会うのは、夏以来だ。チャットする機会は少しずつ増え、今や週に数回は連絡している。

山鳥神社のお土産を渡したいことを伝えると、すぐに返事が来た。

いろいろ諦めて元気になった。会うよ
12:15

何を諦めたのかは分からないが、触れずにいた。なんか面倒くさそうだ。まあ、休職するって仕事とか給料とか諦めるし。休職中に給料をもらっているかは知らないけど。


チャットは途切れ途切れながらも続き、彼女ができたことをつい伝えてしまった。

浮かれてるな。ま、おめでと
22:06
暇だし会わせろよ
22:07

会おうとするなんて、予想外だった。



礼とよく来ていた、書店横のカフェで待ち合わせ。サラさんをつれて。

「緊張します。何を話せばいいのでしょう」

サラさんは少しうつむき、そわそわしている。

「まあ普通でいいよ。礼はその…言い方がきついところもあるけど、悪い奴じゃないから」


礼と会うか、もちろんサラさんに決定権を委ねた。チャットで『会ってみます』と届くまで、2日かかった。『無理して会わなくても大丈夫です』と伝え、直接口でも伝え、それでもサラさんは会うと決めた。

サラさんも友達が少ない。会うと決めたのは、意外も意外だ。礼もサラさんも、実は誰かと話したいタイプなんだろうか?



礼は黒のコートで現れた。時間が進んだことを、嫌でも思い知らされる。夏に会ったときと比べて、少し顔がふっくらしている。

「よう久しぶり」
「久しぶり」
「えっと、彼女のサラさん」
「サ……」

礼が名前を言おうとして、やめた。なんだ?

「は、はじめまして。中森サラです」
「は…はじめまして。藤居ふじい礼です」
「まあ挨拶はこの辺で。寒いし、カフェ入ろう」

礼が動揺している?まあそうか。礼と知り合って、俺に彼女がいた日はない。照れてるのか。

一方のサラさんは恥ずかしながらも、ハキハキと自己紹介していた。さすがだ。あの日、面識がない俺に突然話しかけただけある。


「僕、帰る。気分が悪い」

急になんだよ。

「は?今来たばっかりじゃん。なんだよ」
「会わせてとお願いしたのは僕だし、礼儀だろ」
「こんなすぐに帰る奴がいるかよ」
「急に気分が悪くなったんだ。仕方ないじゃん」
「もしかして、来る前から気分悪かったんじゃないか?言ってくれよ。別に今日じゃなくてもいいんだよ」
「日持ちしないお土産かもしれないとか、彼女が時間作ってくれたとか、僕なりに考えたんだ。なんだよ」

礼の得意技。正論で詰めてくる。こっちを見ているカフェのお客さんが、ちらほら見える。サラさんは完全に固まってしまった。でも、礼はこういうときも止まらない。周りを気にしない。ずっとそういう奴だ。

「夏と一緒じゃん。なんだよ、来るだけ来てすぐ帰るって」
「とにかく帰る。お土産は、い…彼女にでもあげて」
「いや、俺もお土産渡すって言ったし。受け取れよ」


紙袋を手にした礼は来た道を颯爽と歩き、少し伸びた髪をなびかせながら、あっという間に姿を消した。

「あ…えっと、あの。ごめんなさい。私…私……」
「サラさんは何も悪くない。悪くないです。完全に礼が悪い」

本当に、サラさんは何も悪くない。礼が全部悪い。なんだよ。これじゃ夏と同じじゃん。


「私、礼さんと話したことはありませんが……何度か見たことはあります。私を見て、気分を悪くしたのかもしれません」

「それはない!ないよ!見ただけでしょ?何もしてないし。今日が初対面だし」

サラさんは礼を見たことがあるのか。まあ、部署が違ってもすれ違うのは珍しくないし、礼はいつもワイシャツで、鋭い眼光。わりとシュッとしてるし、目立つといえば目立つ奴だ。

「礼がもしサラさんを見て何か思ったなら、きっと俺に何か話してるよ。そういう奴だ。言わずにはいられない」


そういえば、礼はサラさんの名前を言おうとしてやめた。何だったんだ?動揺していたように見えたし。俺が彼女を紹介するのは初めてだから、照れてるのかと思ったが……礼ももしかしてサラさんを知っている?


・ ・ ・


礼は翌日になっても、1週間経っても、連絡してこなかった。

俺もサラさんも何も悪くない。自己紹介しかしていない。お土産のことも、彼女のことも、礼なりに考えてくれたのかもしれない。だけど、急に帰るなんて失礼だ。気分が悪いなら、言えばいい。

これじゃあ、夏と同じだ。

会う約束をして、確かに来てくれたけど、ドタキャンと変わらない。全然会話できていない。チャットしても体調不良としか教えてくれないし、休職の原因ははっきりと分からない。


礼と会うのを控えたほうがいいのかもしれない。気晴らしになるかと思って渡したお土産も、本当に礼が喜んでるのか分からない。サラさんと違って、礼の感情は見えにくい。

復帰の話は全然出ない。俺のせいで体調が悪くなったら、元も子もない。



そんな俺をよそにカフェのいざこざから10日後、礼をコンビニで見かけた。

相変わらず冷たい視線で、姿勢良く、この前と同じ黒のコート。

いつもの礼と違うのは、女性と一緒に歩いていること。礼には友達はおろか、彼女もいない。いない…と聞いている。


俺がこの前とは違うコートだからか、礼はコンビニの駐車場ですれ違っても気づかなかった。ショートカットが似合う可愛らしい女性と一緒に歩き、何やら話していた。サラさんと同じぐらいの身長の、小柄な女性。

休職中に彼女ができたのか?いやいやいや。まさかな。じゃあ、いつから付き合ってるんだ?そもそも彼女じゃないのか?いや、でも、礼が女友達とあんなにくっついて歩くか?姉妹はいないはずだし。


無性にイライラしてきた。

休職中、2回会って2回ともまともに話していない。友達も彼女もいないって言ったのに。なんだよ。彼女いるじゃん。この前のドタキャンのイライラも、昨日の仕事のイライラも復活する。

チャットで聞いても、嘘をつかれるかもしれない。現に嘘をつかれている。行くか、礼のアパート。俺だけ今日休みで暇だし。

コンビニから礼のアパートまで、さほど遠くはない。走れば追いつくか。ああ、うだうだ考えず、さっき声をかければ良かった。俺はいっつもこうだ。


礼がいつもよりゆっくり歩いていたお陰で、数分後には追いついた。

「礼!」

礼は、すぐさま振り向いた。

「なんだよ優太」

すごいな。俺を見て一瞬驚いたかと思いきや、そうか。そんなすぐに返事できるのか。そうだ。礼はいつだって堂々としている。きっと、俺みたいに余計なことは考えないのだろう。

「先に部屋入ってて」

女性はコンビニの袋を持たされ、そそくさと姿を消した。まあ、今はいないほうがいい。


「彼女いるのかよ」

イライラが止まらない。何だよ、俺に嘘ついて。堂々として。

「黙って悪かった。ごめん」
「なんで嘘ついたんだよ。彼女いないって言ったじゃん」

昨日、コールセンターで嫌な客の電話対応をした。リーダーが対応を変わるまで、俺は謝り続けた。客の勘違いと判明し、俺は何も悪くなかった。そのイライラは昨日に置いてきたはずなのに、またぶり返す。

「ごめん」
「いつから付き合ってんだよ」
「休職する少し前」
「は?嘘だろ?」
「嘘じゃない」

ダメだ。礼を責める言葉しか出てこない。彼女と過ごすために休職してんのかよ。

「なんで俺に言わなかったんだよ。友達じゃねえのかよ」
「友達に何もかも全部言わなくていいじゃん」
「俺が彼女できたって教えたときにでもさ、言えたじゃん」
「知んねえよ」

確かに全部言う必要はないけど。けど…なんだよ。夏には彼女いたのかよ。『知んねえよ』とか言うなよ。俺の知ってる礼は、そんな言葉遣いしない。彼女もいない。なんだよ。なんなんだよ。

「え?何?彼女と一緒にいるために休職してんの?」
「は?そんなわけないじゃん。何言ってんの」
「じゃあなんで休職してんだよ」
「体調不良って言っただろ。何度言えば分かるんだ」
「もう3ヶ月経つじゃん。なんで休んでんだよ。そんなに体悪いのかよ」
「悪いよ。それで休んでる」
「いい加減、教えてくれてもいいじゃん」
「知んねえよ」
「知んねえなんて、なんで礼のほうが偉そうなんだよ。いつも強いんだよ。俺のほうこそ、知んねえよ」

なんだよ。だから友達いないんだよ。知んねえよ。あー知らん。

「優太みたいに、適当にやり過ごしてる奴には分かんねえよ」
「は?適当ってなんだよ」
「僕には分かるよ。優太が面倒くさがりなこと」
「……!」

あまりに唐突で、言い返せない。気づかれてたのか。

「面倒くさがりだけど、皆に好かれたいんだろ?適当にやり過ごして、敵を作りたくないんだ。分かるよ」
「うるせえ。だったら何だよ」
「もう僕に関わんないでくれよ」
「いいよ。もう連絡しない」


せっかくカオリさんが休みを交代してくれたのに、なんでまたイライラしなきゃいけないんだ。

礼が休職して以来、会うと途端に仲が悪くなる。チャットなら普通に会話できるのに。

やっぱりあれか。俺と礼じゃタイプが違いすぎるのか。仲良くしていたのも、幻想かもしれない。お互いに気を遣って、嘘ついて、友達っぽく見せてただけかもしれない。


これだから人間関係って面倒くさい。俺は喧嘩とか、雰囲気悪いとか、そういうのは嫌いだ。極力、平和に過ごしたい。

決めた。しばらく礼には連絡しない。本当に連絡しない。別に、礼と話さなくて困ることなんかない。休職中だし。部署も違うんだし。


・ ・ ・


俺のイライラは、借金のごとく膨れ上がった。どんどんマイナスに足を踏み入れ、ろくなことがない。

今週はクレーマーが2人、俺が悪くないのに謝ったのが3件、去年退職した奴の尻拭いが1件。毎日が負のパレード。


今日は朝から最悪だった。珍しい問い合わせが来て、リーダーと資料を探したものの、結局はっきりしたことは分からず、本社に電話。必死で答え、挙句の果てに「新人は電話に出るな」と言われて電話を切られた。

「よく耐えたね」と言ってくれたカオリさんに、だいぶ救われた。俺は客の罵倒に耐えたし、1人の対応で午前中が終わった。ほんと、よく耐えた。


休憩から戻った午後、負のパレードに舞い戻った。

リーダー曰く「1年に1回電話をかけてくるクレーマー」で、引いたら最後。絶対に無理な要求をひたすら聞くしかない。

「新商品を作ったら俺が試す。必ず連絡しろ」だとか「商品開発の奴は何も分かってない。今すぐ変えろ」だとかコールセンターに言われてもどうにもならないことばかり言う。脅迫だろこんなの。前世、強盗かよ。

だが俺は今週、パレード真っ只中。慣れって怖いな。ひたすら謝ることに慣れてきた。10分間言いたいだけ言いまくって、「ちゃんと本社に伝えろよ」と言い放ち、クレーマーは電話を切った。


幸運なことに、部署には優しくていい人しかいない。何かあると、皆が心配してくれる。だから俺は2年もコールセンターにいる。


「優太さん、大丈夫ですか?」とミカさんが声をかけ、「これでも食べて元気出して」とカオリさんからドーナツをもらった。

コールセンターの対応はすべて録音されている。リーダーは俺が対応した音声を聴き、「特に問題はなかったです。でも、対応がきついときはいつでも相談してください」といかにも上司が言いそうなことを並べられた。


マイナスなまま、どうにか仕事が終わった。もうクッタクタのドッロドロ。

いいダシでも出てたらいいが、30前の俺からは嗅ぎたくもない汗しか出ない。早く風呂に入りたい。コンビニで晩飯買って、風呂入って、今日はすぐ寝る。



サラさんとの約束を思い出したのは、風呂上がりのビールを飲んですぐ。

中華料理店に行くの、今日ではなかったですか?
今、待ち合わせの駅にいます
19:15

着信2件も添えてあり、俺は秒で電話した。

「サラさん、本当にごめん!やっぱり今日行けなくなった」

先週チャットで盛り上がり、中華を食べに行こうと約束していたのをすっかり忘れていた。サラさんが休みの、今日に決めていたのも忘れていた。最悪だ。ほんと最悪。

でも、今日の俺はとっくに限界。今すぐにでも寝たい。

「仕事で何かあったのですか?」
「えっと、まあ…ちょっと仕事でいろいろあって。とにかく、今日はごめんなさい。行けなくなりました。今度埋め合わせします」
「分かりました。お疲れ様です」
「本当にごめん」


ピーッピーッ。

コンビニの大盛唐揚げ弁当なんて、優雅に温めてる場合じゃなかった。本当なら今頃、厨房が見えるお店で、揚げ物や炒め物の音を2人で聴いてるはずだった。

でも、これから出かける気力も体力もない。さすがに面倒くさい。もう今日はいろいろ忘れたい。サラさんと会うのもしんどい。

何の罪もないビールも唐揚げもさっさと腹に入れて、とにかく早く寝たい。何も考えたくない。



6


俺の災難は11月いっぱい続いた。占いとか信じないけど、今月の俺の運勢は最悪なんだろう。

大きなクレームはないが、謝る日は簡単に減らない。大盛り弁当を食べる日は増えた。


サラさんは遅番が増え、2人で会う機会は自然と減った。早番は9時、遅番は11時出勤。この2時間の差は意外にも大きかった。チャットできる時間も限られ、以前ほど盛り上がらなくなった。

礼からは何の連絡もない。俺も連絡しない。自分のことだけで精一杯だ。誰かを心配する余裕なんてない。

こういうことは初めてじゃない。社会人ならまあ、珍しくないだろう。距離が離れたら、人間関係なんて上手くいかない。遠距離だろうが、近距離だろうが、関係ない。


元カノと、仕事がきっかけで別れた記憶が蘇る。

出会ったのは、バイト先のファミレス。付き合って数ヶ月後、人手不足で俺は別の店舗に配属された。彼女はいつも通り夜に、俺は昼に寝るようになった。よくある話だ。

すれ違う時間が増えて、話も盛り上がらなくなって、久々に行った野外フェスが大きな決め手。帰りたがる彼女を、もう引き止めなかった。


仕事とか、恋愛とか、友達とか、皆すげえよな。マッチングアプリで女の子と会いまくってる奴もいれば、結婚して子育てしてる地元の友達もいる。

仕事しながら家族のことなんて、俺には無理だ。休みの日に洗濯するのがギリギリな俺には、難易度が高すぎる。イージーモードで生きていたい。



12月に入り、世間はやたら眩しい。

マイナスな日も、少し明るくなる。俺は単純で良かったな、とこういうときに思う。


あちこちを緑や赤や金で盛り上げ、ケーキだのおせちだの予約を受け付けている。イルミネーションやらクリスマスツリーやら、職場のビルも華やかだ。

一方、お客様センターは年末に向けてだんだん静かになる。それぞれが何かと忙しいんだろう。電話の件数が減り、業務中はクリスマスの予定や帰省の話題が増えた。

俺がサラさんと付き合っていることは、礼以外に伝えていない。カオリさんに知られたら、コールセンター中に広がってしまう。もともと俺は自分のことを話さないし、なんとか知られずに済んでいる。


サラさんと一応クリスマスの話をしたが、「2人でゆっくり話せる場所ならどこでもいいです」と彼女も大してテンションが上がっていないようだった。ライブ前の方が、よほど楽しそうだったなあ。

俺は人混みが嫌いだし、予約なんて面倒だ。スーパーで売れ残ったチキンで充分。職場でクリスマスの予定を聞かれても「何もしないです」と伝えた。

だけど、付き合って最初のクリスマスだ。俺はたまたま休みだし、中華の埋め合わせをまだしていない。



コールセンターの電話が減り、自然と負のパレードから抜け出した頃、礼からチャットが来た。

優太、久しぶり
相談したいことがある

21:35

おう久しぶり
相談のるよ
21:40

仕事が暇で、少しずついろいろ考える余裕が出てきた。相談に乗るにはちょうどいい。

礼のことは、言い争いの後から完全に放置していた。あの礼も、さすがに連絡しないとまずい…とでも思ったんだろうか。

説明が難しいんだけど、
僕、らを話せないんだ

21:48

何だ?意味が分からない。

らを話せない?え?どゆこと
21:51

説明したいから、空いてる日に僕の家に来てほしい
休職の理由も全部話す

21:53

急に連絡が来て、よく分かんないけど、どうやら礼が焦ってるのは伝わってきた。

わかった
明日休みなんだけど、急過ぎる?
21:56

いいよ
21:57

礼が相談するのも、家に呼ぶのも、雪が降らないこの街で大雪なほど珍しい。『らを話せない』の意味は、よく分からない。らを話せない?


・ ・ ・


礼の部屋には、前にコンビニですれ違ったショートカットの彼女がいた。ソファーに横になり、スマホでゲームしている。本当に付き合ってるのか。

「友達と大事な話したい」
「分かった。そこのカフェにいるから、終わったら連絡して」

礼に彼女がいるなんて想像できなかったけど、思いのほか上手くいってるのかもしれない。


「ほんとに彼女なんだな。まだ信じられねえな」
「嘘をついたのは悪かった。ごめん。ただ、その、僕は今まともに話せないんだ」
「らを話せないから?」
「そう。話そうとしても、言えない。それで休職した」
「じゃあ、体調不良じゃねえの?」
「そう。まともに話せないこと以外は、何も問題ない。嘘ついてごめん。優太にも彼女にも謝る。ごめん。普通に話せるかと思ったけど、やっぱり自信がなくて逃げた。悪いことした」

まともに話せなかった理由が分かった。でも、宙に浮いてるみたいだ。らを話せないってなんだ?

「らを話せなくなったのは、いつ頃?」
「休職する前日。言おうとしても、言えなくなった。急に」
「急に?」
「対応した客が『はっきり話せよ』って言っても、最初は気づかなかった。話し方に文句を言われるのは初めてで、つい言い返した」
「うっわ、言い返したのかよ」
「そう。優太、見てただろ?対応の後の僕」
「あー、青ざめてたな。そういうことか」
「でも、あのときは話せないことに気づかなかった。客の耳が遠いと思った。異変は彼女が気づいたんだ。聞き取りにくいところがあるって。僕は喋ってるのに、彼女は聞こえてない。録音して聞くと、確かに聞こえないんだ」

脳内をクエスチョンマークが占拠している。らを話せないなんて、どういうことだ?そのままの意味だとして、あり得ない。

「話せないのは、らだけ?」
「そう。50音全部言って確かめた」
「まだ信じられないな」
「急にこんなこと言っても信じないよ、普通。それもあって休職したし」
「あのさ、無理にとは言わないけど、ラッパって言ってもらっていい?」
「いいよ。ッパ」

礼の口の動きは、確かにラッパ。でも、らは聞こえない。

「すげえな。ほんとに聞こえない」
「待ってれば元に戻るかと思った。退職じゃなくて休職にしたのは、それが理由。でも、優太、4ヶ月経っても言えないんだ。このまま今年が終わるなんて、考えたくもない」
「礼……」
「僕の部署はサーバー関連だ。LANケーブル、イセンス、ンサムウェア、エー、ンタイム…無理、無理だ。こんなんじゃ戻れない」
「礼……」


らを話せないなんて謎すぎる。解決方法なんて、もちろん知らない。

「休職中にいろいろしr…検索したけど、何の情報もない。特定の言葉だけ話せないなんて、そんなのあり得ない。あり得ないけど、僕はそうなんだ。どうすればいい、優太。僕に友達がいないのは本当で、他に頼る人がいない」
「礼…」
「休職中、僕に会ってくれたのは優太だけだ。あんな態度取って本当に悪かった」

こういうときに何と声をかけるのが正しいか、ネットにも自己啓発本にも答えはないだろう。特定の言葉を話せないなんて、俺だって聞いたことない。あり得ない。けど、礼も言う通り、現実なんだ。どうすればいいんだ。


ふと、礼に渡した鳥型のビンが目に入った。

「あ、山鳥神社。あの神社、願いが叶うらしいから、お参りとかどう?よければ一緒に行くし」
「山鳥神社?あ、あの、幽霊が出るとか出ないとか」
「そう、そこ。らが話せないなんて意味分かんねえし、神頼みぐらい試してもいいんじゃねえの?」

我ながら、いいアイデアだと思う。礼は休職中で時間あるし、気晴らしにもちょうどいい。俺は俺で神社に行きそびれたし。願いは叶ったけど。

「そう…だな。行ってみるか」



今度、礼と山鳥神社に行くんだけど
一緒に行かない?
礼も前のこと直接謝りたいみたいで
無理なら断って構わないです
19:55

サラさんも誘った。礼が謝りたいのは本当だ。

行く日は決まっているのですか?
20:01

いや、まだ決まってません
しばらく雨なので、来週以降にしようかと

20:03

クリスマスに3人で行きませんか?
20:08

俺たちがカップルになって初めてのクリスマスに、山鳥神社?しかも3人で?本当にクリスマスに興味がないんだな。

俺は大丈夫です
クリスマスでいいか、礼に聞いてみます

20:12

早速、礼に伝える。

優太はいいのか?初めてのクリスマスだろ?
20:47

いいよ
まあ高級ランチぐらいは行くよ
礼のほうこそ、彼女に悪いだろ

20:49

彼女、イブもクリスマスも仕事
ちょうど暇だし、僕は大丈夫

20:51

そうだった。礼の彼女は飲食店で働いている。繁忙期だし休めないのか。

クリスマスに神社行き、決定。味気ないけど、俺はイルミネーションも街の人混みも好きじゃないし、ちょうどいい。



7


クリスマスはとにかく人が多い。しかも今年は土曜日。若干うんざりしながら、サラさんと隣町のアーケードを歩いた。

すっぽかした中華を埋め合わせるために、まずはカフェでランチ。予約も、2人7,000円のコースも、俺にしては頑張った。しかも、ピアノの生演奏付きだ。


サラさんとすれ違った数週間は、まるでなかったようだ。

いつものように彼女は笑い、芸樹的な盛り付けの料理をまじまじと見つめては、ピアノに聴き惚れていた。これまでと何も変わらない。

すれ違った時期は、お互いに触れていない。いつの間にか話せるようになって、こうしてまたデートしている。わざわざ蒸し返すなんて、牛フィレ肉にも、初めて見る赤いワンピースにも失礼だろう。

ランチ後は広いアーケードをぶらぶらと歩いて、疲れたらカフェで休憩して、また歩いた。礼と会う前にパスタを食べて、「緊張します」と言うサラさんをなだめた。



19時。3人でバスに乗る。

クリスマスの夜に、今から神社へ行く人なんていなかった。バスの乗客は俺たちだけ。

バス停で礼がサラさんに謝って以降、あまり盛り上がる会話もなく、バスではテンプレ通りに言葉を発する運転手の声ばかりが響く。

クリスマスに山鳥神社へ行こうと提案したサラさんも、特に何も話さない。静かなサラさんは珍しい。礼と行動するのは初めてだ。やっぱり緊張してるのか。



山鳥神社で降り、俺たち以外は誰も歩いていない。さすがクリスマス。

礼は久しぶりに来たらしく、「店が増えたな」と参道でつぶやいた。俺とサラさんは、一緒に行った店や人混みだった景色を身振り手振り礼に話した。

でも、静かすぎやしないか?

3人とも黙ると、何の音もしない。虫も鳥も鳴いていない。砂利の音だけが聞こえる。うっわ、しまった。幽霊のこと思い出した。



鳥居に入る直前、サラさんが急に立ち止まった。

「優太さん、今までありがとう」

なんだよ、急に。

「どうしたの、サラさん」
「毎日がとってもとっても楽しかった。私に音楽を教えてくれて、優しくしてくれて、本当にありがとう。しおり、心の奥から嬉しかった。私に恋人の体験をさせてくれて、ありがとう」
「えっと…え?急にお礼なんてどうしたの」
「なんか、別れそうな言い方だな」

なんだよ、礼。別れそうとか言うなよ。でも、確かに別れそうな台詞にしか聞こえない。なんだよ。どうしたんだよ。


「この神社から半径1km以内に、私たち3人以外誰もいません」
「え?サラさん、何を言ってるの?」
「は?なんだよ急に」

なんだよ、ついていけないよ。なんだよ。

俺も礼も鳥居をくぐったのに、サラさんはくぐろうとしない。彼女の後ろの三日月が、少しずつ雲に隠れる。


月が隠れ、一面暗くなると、サラさんは鳥居の真下に足を踏み入れた。彼女の体はみるみる透けて、ベージュのコート姿から、白いロングワンピース姿へと変わった。地面からペットボトル1本ぐらい浮いている。

「優太さん、礼さん。ここで私は人間の姿を保てません。境内ではこの姿でお許しください」

なんだよ…これ。サラさんは何者なんだ?


「どういうこと?」

ダメだ。言葉がすぐに出てこない。もう絶句に近い。

「もしかして、お前が神社で出る幽霊か?」

礼の一言ですべてを悟った。神社付近で目撃されている幽霊は、サラさんか。


「目撃された幽霊は私です。ライブに浮かれて、油断してしまいました。騒がせてしまって、ごめんなさい。でも、私は幽霊ではありませんし、人間でもありません。天上人てんじょうびとです。半年だけ人間界にやってきました」

幽霊じゃねえ。ていうか、天上人ってなんだ。

「天上人?」
「お前、神様か?」
「そうですね。人間界ではそう呼ばれています」

サラさんが神様?は……?

「私たちの特定の場所では、話す言葉以外の音はありません。とても静かなのです。人間界には楽器や鳥や歌がある。私は音を聴きたかった。それで半年間だけ人間界に来たのです」

来たのです…じゃねえ。意味が分かんねえ。

「ライブは何よりも嬉しかった。優太さん、一緒に行ってくれてありがとう。あんなに大きな音、素晴らしい歌声、私の周りにはありません」

冷静に聞けない。

「えっと…サラさんは本当は神様で、音を聴くために人間界に来たと」
「大筋はそうです」
「人間の姿で自由に歩けば良かったのに、なぜコールセンターで働いたの?」
「人間と話したいですし、働く女性を経験してみたかったのです。熟考の末、自然に大勢の人と話せるかと思い、選びました」
「はっはっは。面白い神様だな」

礼が大きく口を開けて笑うなんて、いつ以来だ。まあ確かに面白い。

「なぜこの街に来たの?」
「それは……」

サラさん…と呼んでいいのかもう分からないけど、サラさんは急に口籠った。ゆっくりと地面に立ち、両手を前でそろえ、姿勢を正した。


「人間界のどこに降りようか迷っていたとき、たまたま礼さんを見ました」

礼を見た?

「礼さんは女性を巧みに騙して、お金を受け取っていました。自分の都合のいいように言葉を遣い、騙し、女性がお金を渡すのを何度も見ました」


礼が女性を騙す?お金を受け取る?なんだよ、またついていけない。

「は?何を言ってんだ?僕が騙す?神様だか何だか知んねえけど、いい加減なこと言うな」
「ごめんなさい。たまたま見てしまって。でも、本当のことです」
「何だよ、お前、神様なんて嘘だろ?僕に何かうr…僕を憎む幽霊か?」


クリスマスに、なんでこんな口喧嘩聞かなきゃいけないんだ。2人とも、やめてくれよ。

「礼、ちょっと待って。サラさんの話を聞きたい。なぜ街に来たのか、まだ話し終わってない」
「なんだよ優太。こんなよく分かんねえ奴の話、まともに信じるのかよ」

サラさんは半透明の体で、冬なのに袖がないワンピースで、違和感しかない。でも、彼女の表情は何も変わらない。優しくて、少し自信がなさそうで、春の日差しのような柔らかい表情。いつものサラさんだ。

「信じるよ」

「ありがとう、優太さん」と言ったサラさんは一旦うつむいた後、すっと顔を上げ、キリッと凛々しい顔をしてみせた。


「少し説明が難しいのですが、私は文字や言葉を司る者です。担当は日本語で、今日本人がどのような言葉を遣っているのか、情報を知り、行く末を見守っています。実験のため、この街に訪れました」
「実験?」
「昨今、日本では『ら抜き言葉』と目にする機会が増えました。そこで私の上司が『実際に、らを抜いてみよう』と提案し、今回の実験を行ないました。そこで見つけたのが、礼さんです」
「なんで僕になるんだよ」

3人とも話すのをやめると、何も音がしない。怖い。本当に俺たち以外に誰もいないんだ。


「礼さんは言葉で女性を騙してきた。数人ではありません。少なくとも5人は騙し、女性からお金を受け取っています。言葉を悪いように遣うのを、私は許せなかった。だから礼さんを選んで実験するため、人間界に来ました」
「絶対に許さない!普通に話せなくなって。休職して。話すときにいちいち気を遣うんだ。面倒くさいんだよ、4ヶ月ずっと。早く戻せよ!」

「待てよ、礼。お金を受け取ったってなんだよ」
「優太には何も分かんねえよ。適当に趣味作って、友達ごっこするような奴には」
「友達ごっこってなんだよ!俺は、本当に礼のこと友達と思ってるよ!」
「そういうの、面倒なんだよ!別に友達なんていなくていいよ!僕に構うな!」


あーーーーーー、もう。こんなときに気づいた。そうか。そうだ。

礼も俺と同じなんだ。

友達をなくして、また誰かと仲良くなっても、また友達をなくすんだ。一人でも平気な顔して。でも平気じゃない。


「お金、何に使ったんだよ」
「何でもいいだろ」
「ゲームですよね。申し訳ないですが、私はあなたを詳しく知っています」
「は?見てたのかよ」
「礼、何したんだよ!」
「いいだろ、何でも」

なんだよ、情報量が多すぎるよ。

「礼さんはお金を借りるフリをして、女性から何万円も受け取り、ゲームに幾度となく課金しています。今の彼女からいくら受け取りましたか?きっと愛情なんてないでしょう?」

「うるさい。うるさい。うるさい。もう帰る」

2人とも情報量が多いんだよ。なんだよ。

「らを奪い、面倒なことになってしまって、ごめんなさい。言葉を1つ奪い取ると、仕事も私生活も面倒だとよく分かりました。もう充分です。らを返します。拝殿へ行きましょう」


礼はひたすら文句や罵声をサラさんに浴びせながら、ずかずかと歩く。よく神様に「お前」なんて言えるよな。

サラさんはロングヘアとロングワンピースをなびかせ、先頭でふわふわと浮いている。

ほんと、なんでクリスマスにこんな目に遭うんだ。

俺だけが焦ってるみたいで、なんか悔しい。なんだよ、礼もサラさんも。俺の知らない話を一気に話すなよ。彼女が神様?礼がお金を騙し取る?礼はなんで冷静にいろいろ言えんだよ。



山鳥神社はテレビで散々見ていたので、特別何も驚かなかった。人がいなくて、音がないのがとにかく怖い。鳥の声すらしない。

かろうじて朱色だと分かる拝殿は、提灯が2つだけ。薄っすら狛犬も見える。


サラさんは、狛犬と狛犬の中央で急に止まった。

ラ……

何か聞こえる。鳥か?いや…これは歌?

ラ…ララ…ララ……

礼はさっき散々話しまくったからか、息切れして黙っている。

ラララ

やっぱり歌だ。

ラララ ラララ ラララ


……!、これは三七四五の『憧れのララバイ』だ。


かすかに聞こえる声で歌い終えたサラさんは、俺たちのほうにゆっくりと振り向いた。狛犬と同じぐらいの高さまで浮き、大きく口を開けた。


らら
raラLaら
raらlaララ等らラla
laら拉laらら等らラ羅らラLaラ
ら等らラla拉等羅ララら裸Raららraラla
Laらラらら等RaらラLaらララ
ら羅らraららラlaラ等
ララlaら拉
Laら
羅ラ
らラ等ら
裸らララraらラらla
ら拉laらララ等らラ羅raらla等
ラら等laら裸raLaらら拉ラ羅laラらraら
raララら羅ららら等ラRaら羅
la羅拉らraらラLaらら
Raラら拉拉
らラ



浮いてる時点で、半透明の時点で、人間ではないとはっきり分かる。

人間が出せないであろうその声は、明確に、絶対、絶対に人間ではないと俺たちに突きつけた。高音も低音も入り乱れ、震え、響き、うねり、重ね撮りしたような声。人間が生で出せる声ではない。

礼も俺も、ただ立ち尽くしている。


「急に変な声を出してしまって、ごめんなさい。先に伝えるのを忘れていました。礼さん、らを長い時間奪ってごめんなさい。お返ししました」
「ら…。らー。ラッパ。本当だ。言える。畜生、神様だろうが僕は許さないからな」
「実験のために言葉を奪ってしまい、本当に本当にごめんなさい。私は元の世界に帰ります」

やっぱり別れるのか。

「サラさん!半年だけこっちにいるなら、なんで俺と付き合ったんだよ。最初からこうなるなら、恋人になんかならなくて良かったのに」

ダメだ。納得できない。こんな別れ方あるのかよ。

「天上人である私が人間と恋人になるなんて、想定外でした。まさか半年で。でも、優太さんがゆっくり恋人になろうと、私と話したいと言ってくれて、それに応えたいと思いました。天上人にできることなど、実のところそんなにありません」


俺はライブ前に見た、池の夕日を思い出していた。

あの日から始まった約1ヶ月半のカップル期間は、まるで時の流れが違った。サラさんと過ごす時間が長くなり、夜や休日にも会うようになった。


彼女は誰かの愚痴も、俺への文句も、仕事の不満も、世間への批判も、何一つ言わなかった。純粋に音楽に興味があるのだと、彼女の丸い目を見て感じ取った。

質問されることが多く、俺はなるべく傷付けない言葉で答えた。彼女はたくさんの言葉を知っていて、俺は自分の語彙力のなさに度々落ち込んだが。


「サラさんは神様で、俺は人間だ。俺にできることなんて、もっともっとない。礼みたいにのめり込むような趣味も、何か特技があるわけでもない。そんな俺がサラさんの恋人で、嬉しかった。表情がくるくると変わって、素直に質問して、動作も可愛くて、猫みたいで……」

ダメだ。俺はサラさんともっと話したい。話したいんだ。質問されて、目を丸くして、小さな手を握って、もっと抱きしめたり、もっと声を聴いたりしたいんだ。せっかく手に入れた時間なのに。


「ありがとう…ありがとう、優太さん。でも、できることがないなんて、言わないでください。ライブに行ってくれたこと、しおりをプレゼントしてくれたこと、一緒に天ぷらの音を聞いたこと、歌詞を教えてくれたこと、全部全部全部嬉しかった。優太さんは名前のとおり、優しい人間です。優しいのは胸を張れる特技です」

ああ。彼女はまたお礼を伝えてくる。何を言えばいいんだ。もう、きっと、きっと、彼女とは会えない。

「優太さん、あなたといる時間は、そう、優しさに満ちていた。穏やかな声や音に包まれ、私は本当に本当に幸せでした。歌詞の言葉も大きな収穫です。まだすべてを把握していません。戻ったら上司に報告します」

ああ、本当にいなくなるのか。

「おい、優太、彼女に何か伝えることないのかよ!たぶん、今のうちだぞ」

なんだよ、礼。こういうときも正論か。分かってるよ。


初めて彼女に話しかけられた日を、昨日のことのように覚えている。

不安そうで、でも堂々とした足取りで、俺に近づいてきた。声を聴いて、ちょこちょこと小さな手でアプリを操作するのを見て、可愛らしいと思った。

スマホで音楽を聴ける時代に、音楽を聴かない人がいるのかと驚いた。やがて音楽にハマった彼女は、歌詞にも興味を持った。韻も知らず、「これはどういう意味なのですか?」と質問する彼女は、誰よりも新鮮だった。

公園で恋人になったこと、ライブの時間、しおりを見たときの笑顔、一緒のイヤホンで音楽を聴いた日、手をつないで歩いた帰り道、気まずくなったこと、クリスマスデート、俺の部屋に一度も入らなかったこと。


「サラさん、会えて、一緒に時間を過ごせて、話せて、とても嬉しかった。俺は上手く伝えられないけど、とにかく嬉しかった。ありがとう」

「ありがとう、優太さん。私はいつも見守っています。あなたたちが幸せであるように。そして、願っています。言葉で誰かを傷つける人間がいなくなることを」

サラさんはだんだんと透明になり、今にも消えようとしている。

「あ…あ、ありがとう、サラさん」

「実は、今日で半年なのです。時間がありません。ごめんなさい。間もなく帰ります。私も会えて嬉しかったです。人間界には我々の世界にはない、たくさんの音と言葉で溢れています。どうか、楽しんで」

精一杯の笑顔なのか、泣きそうなのか分からない表情のサラさんは、そう言って消えた。牡丹のしおりを残して。


・ ・ ・


俺はいつもと変わらないフリをして、コールセンターで働いている。

この前リーダーから呼び出されて、正社員登用の話が来た。春から新しい部署が立ち上がるらしく、俺はそこのリーダーになるらしい。どうやら面倒くさいことが多いらしいが、いつものように引き受けた。

サラさんが退職を伝えたと知ったのは、年が明けてから。親の会社を手伝うのが退職理由なんて、人間界で覚えたのか。それとも小説か。


「しおり落とすなよ、優太」

礼とは、あれから何でも話すようになった。

礼はあるスマホゲームの、ランキング上位者だったらしい。課金でアイテムを得るために、女の子に「お金がない」と嘘をつき、何十万円も受け取っていた。いつだって強気な礼が弱々しい姿を見せてたなんて、異常だ。

酷い目に遭ったからか、「いつか辞めたいと思ってたし」と宣言し、ゲームを削除していた。礼の最近の趣味は、電子書籍の漫画。読みまくっている。


礼は「ら」を取り戻し、仕事に復帰した。「当分、彼女いらない」なんて言ってるが、俺はそう遠くない未来に彼女ができると踏んでいる。

礼がどんな人間か分かったのは他でもない。サラさんのお陰だ。昔の俺たちはまだ友達じゃなかった。ようやく最近、本当の礼を分かってきた。


「ありがとう、礼。見られたかな。罰当たりだな。ごめんサラさん」

サラさんが消えてから、俺は面倒くさいことを少しずつ増やした。本当に見守られている気がする。優しいと天上人からお墨付きをもらったし、ダサい俺は見せたくない。

趣味に読書と料理が加わった。包丁で切る音、フライパンで炒める音に耳を澄ませるのは楽しい。自分次第で、世界って簡単に広がるんだな。でも、小説の面白さに今頃気づいたなんて。


俺には似合わないステンドグラスのしおりは、じんわりと輝き、先の紐がくるっと回った。春になったら、桜のしおりを買おうと思う。



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