災いと芥川龍之介
芥川龍之介について一文。述べるべき何かが残されているか疑わしく思うかもしれませんが、まだまだあるようです。
議論の標的は大正八年。彼が足掛け三年務めた横須賀海軍機関学校の英語教師の職を辞めて専業作家となったのがこの年。「帰らなんいざ、田園将に蕪せんとす」云々、鎌倉を離れ田端へと居を移すなど慌ただしい。その最中に書かれた一連の作品は、たとえば次のように評されています。
評伝中、最も暗い章題、節題、項題があてられていることを見ても察せられるように、大正八年あたりのいわゆる「中期」の作品というのは、一読どうにも冴えない、というか言ってしまえば退屈極まりないのです。
しかし、「概観」一読で終えず、
と眼を凝らして読んでみれば、
といった仕儀にもなりうるようなので、それをやってみようと思うのです。
先だって、各章の内容。
第一章 『蜜柑』の作品論。抱腹絶倒。
:引喩満載の衒想諷刺吸血鬼短編小説として『蜜柑』を読みます。荒唐無稽なテクスト論に見えるかもしれませんが、『金春会の「隅田川」』との照応を考慮することで作品論たり得ている気がします。
第二章 『沼地』の作品論。陰陰滅滅。
:「パラフィクション」(佐々木敦)として『沼地』を読みます。大正八年の芥川氏に、Chim↑Pomの面影を見ています。『戯作三昧』と『沼地』の照応を一々確認しているところは退屈かもしれません。
第三章 『寒山拾得』のテクスト論。虎頭蛇尾。
:一九二〇年代と一九六〇年代が橋の上で出会います。
第四章 『沼』の作品論と『夢十夜』「第一夜」のテクスト論。鬼哭啾啾。
:『沼』の紹介から入っています。『沼』で「おれ」が死ぬ理由を、「第一夜」の前半の妖しい文体に求めています。『死神』が出てきて趣深いです。細部の読解が病的です。
第五章 第四章の続きで「第一夜」の誤読の系譜。基督抹殺。
:芥川氏が「第一夜」をどう誤読したかを書いてあります。
第六章 第四、五章の続き。澁澤龍彥『撲滅の賦』の作品論。龍質魚文。
:誤読の系譜の続き。澁澤龍彥が「第一夜」をどう誤読したかを書いてあります。かと思うと、澁谷の連絡通路にかかる『明日の神話』の眼の前にあれよあれよと。
第七章 『春の心臓』の作品論。有耶無耶。
:大正三年初出の『春の心臓』の翻訳がどうして大正八年の著作集に再掲されなければならなかったのか、それについて一応の説明をつけたつもりでいます。「紙数の不足を補ふ為」ではないと思います。
各章、次の一文に応えるかたちになりました。大正八年初出。
はてさて「作品集」は何を指すか、「夢」とは何か。それについて「未来の読者」は「一篇なり何行かなり」書き散らすことになったということです。
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