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災いと芥川龍之介

芥川龍之介について一文。述べるべき何かが残されているか疑わしく思うかもしれませんが、まだまだあるようです。

議論の標的は大正八年。彼が足掛け三年務めた横須賀海軍機関学校の英語教師の職を辞めて専業作家となったのがこの年。「帰らなんいざ、田園まさせんとす」云々、鎌倉を離れ田端へと居を移すなど慌ただしい。その最中さなかに書かれた一連の作品は、たとえば次のように評されています。

 一九二〇(大正九)年一月二十八日の日付で、芥川の短編集『影燈籠』が春陽堂から刊行された。中期に入った芥川の創作集だ。収録作品は「蜜柑」「沼地」「きりしとほろ上人伝」「龍」「開化の良人」「世之介の話」「黄梁夢こうりようむ」「英雄の器」「女体」「尾生の信」「あの頃の自分の事」「じゆりあの・吉助」「疑惑」「魔術」「ねぎ」、それに翻訳「バルタザアル」「春の心臓」の二編である。翻訳二編は「紙数の不足を補ふ為、止むを得ず巻末に加へ」(「附記」)たものという。
 ここに収録された小説を概観すると、芥川の創作活動の停滞ぶりが遺憾ながらはっきりしてしまう。特に前期芥川文学の収穫だった『羅生門』と『傀儡師』の二つの創作集と比べると、歴然たるものがある。

[太字引用者] 関口安義 (一九九五年) 『芥川龍之介』 岩波新書
第六章 「疲労と倦怠」第三節「人生の陥穽」第三項「創作の停滞」より引用

評伝中、最も暗い章題、節題、項題があてられていることを見ても察せられるように、大正八年あたりのいわゆる「中期」の作品というのは、一読どうにも冴えない、というか言ってしまえば退屈極まりないのです。

恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。

芥川龍之介『沼地』

しかし、「概観」一読で終えず、

再び

三度みたび

と眼を凝らして読んでみれば、

同じ会場に懸かっている大小さまざまな画の中で、この一枚に拮抗きつこうし得るほど力強い画は、どこにも見出す事が出来なかったのである。

といった仕儀にもなりうるようなので、それをやってみようと思うのです。

 以下では、作品から作者の意図を読み取ることを作品論、
作者の意図を度外視して作品がどう読みうるかを考えることをテクスト論とよんで区別しています。

先だって、各章の内容。
第一章 『蜜柑』の作品論。抱腹絶倒。
:引喩満載の衒想諷刺吸血鬼短編小説として『蜜柑』を読みます。荒唐無稽なテクスト論に見えるかもしれませんが、『金春会の「隅田川」』との照応を考慮することで作品論たり得ている気がします。
第二章 『沼地』の作品論。陰陰滅滅。
:「パラフィクション」(佐々木敦)として『沼地』を読みます。大正八年の芥川氏に、Chim↑Pomの面影を見ています。『戯作三昧』と『沼地』の照応を一々確認しているところは退屈かもしれません。
第三章 『寒山拾得』のテクスト論。虎頭蛇尾。
:一九二〇年代と一九六〇年代が橋の上で出会います。
第四章 『沼』の作品論と『夢十夜』「第一夜」のテクスト論。鬼哭啾啾。
:『沼』の紹介から入っています。『沼』で「おれ」が死ぬ理由を、「第一夜」の前半の妖しい文体に求めています。『死神』が出てきて趣深いです。細部の読解が病的です。
第五章 第四章の続きで「第一夜」の誤読の系譜。基督抹殺。
:芥川氏が「第一夜」をどう誤読したかを書いてあります。
第六章 第四、五章の続き。澁澤龍彥『撲滅の賦』の作品論。龍質魚文。
:誤読の系譜の続き。澁澤龍彥が「第一夜」をどう誤読したかを書いてあります。かと思うと、澁谷の連絡通路にかかる『明日の神話』の眼の前にあれよあれよと。
第七章 『春の心臓』の作品論。有耶無耶。
:大正三年初出の『春の心臓』の翻訳がどうして大正八年の著作集に再掲されなければならなかったのか、それについて一応の説明をつけたつもりでいます。「紙数の不足を補ふ為」ではないと思います。

各章、次の一文に応えるかたちになりました。大正八年初出。

しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。

[太字引用者] 芥川龍之介『後世』

はてさて「作品集」は何を指すか、「夢」とは何か。それについて「未来の読者ビユーテイフルドリーマー」は「一篇なり何行かなり」書き散らすことになったということです。


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