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災いと芥川龍之介 第一章「こういうこともすぐに忘れられるから記しておく」
この章の魅力:全面的破壊
上りの汽車に乗って鎌倉を後にする、という大正八年の一幕を捉えたような『蜜柑』なので、冬の夕日暮れ、曇天の下、汽車の出発を待つ「私」とは芥川氏その人だと見做して読みたくなります。
或曇つた冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。
プラットフォームから寒空に空しく響く小犬の吠声が汽笛を待つ「私」の心許なさと合う心象風景の絶妙から始まっています。しかし『羅生門』の丹塗りの円柱に張り付いて補色を際立たせていた蟋蟀でさえそうであるように、この薄ぼけた小犬もまた一つの添景に過ぎないとして、いつまでも心に留めておく読者をついに持たなかったらしい。
蟋蟀はどうだろうかしらん、横須賀を後にしようという「私」もとい芥川氏があえて犬に紙面を割くという事実は、聊か現実性の過剰を含んでおり、軽視するわけにはいきません。メランコリーの図像にきまって犬の姿が描かれるルネサンス期の定型を意識してではないですが、犬のイコノロジーは問題とされて然るべきでしょう。
(…)予は外に差支へのない限り、正に海軍当局の海の如き大度量に感泣して、あの横須賀工廠の恐る可き煤煙を肺の底まで吸ひこみながら、永久に「それは犬である」の講釈を繰返して行つてもよかつたのである。
教師の頃から犬が気がかりで、プラットフォームでも未練がましく犬を指す「私」ですが、同じ題の文章での犬の吠え様を思えば、同情をくすぐる一文なのです。
大学で講義をするときは、いつでも犬が吠えて不愉快であった。余の講義のまずかったのも半分は此犬の為めである。学力が足らないからだ抔とは決して思わない。学生には御気の毒であるが、全く犬の所為だから、不平は其方へ持って行って頂きたい。
もう半分は大学の環境と学長との所為であるといいます。学者犬に唾棄し、不惑にして「新聞屋」となった師。倣う大正八年の芥川氏が「檻に入れられた」「小」犬をみるのでした。その含みは言わずもがなでしょう。
「私」の荒みは悪辣な犬の引喩有らしめ、これが、
一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。
から、
昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。
までの間に繰り広げられる、夢のような蜜柑乱落のイリュウジョンの中に融け解れてゆき、些末事とはなるのでしょうか。
「小」犬を振り切る汽笛が鳴ると、その「小」娘が誰某譲りか知らん「日和下駄」を慌しく踏み鳴らしながら改札を抜けてきます。にわかに喧しくなる。汽車が出ると、彼女は車内で狂女なみの奇行をやって「私」の顰蹙を買うという結構。ですが、あくまで、
『隅田川』は静かに始まつた。
のでした。その序について「隅田川の渡りの水にも、犬の土左衛門の流れ得る事実をちよつと思ひ出させ過ぎ」たのは野暮だったかもしれません。
帰去来の龍としては、「上」りの列車に「昇」龍の願いを籠めて縁起の佳い上京を書いたのでしょうか。同時期に書かれた『龍』の蔵人得業恵印は「三月三日に龍昇らんずるなり」の虚言/予言を畿内に轟かせ、因みに桃の節句は女の子が奇特で優しい女性に成長することを願う日でもあります。小娘はどうなるか。
とまれ、小娘が二等客車に乗り込むと「同時に」汽車は徐に動き出すのでした。これは不思議、快活な田舎娘が汽車を賦活した模様です。「私」はというと、差し向かいに坐ったその小娘を憂鬱な眼色で睨むような仕儀になるのでした。
それは油気のない髪をひつつめの銀杏返しに結つて、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。
「赤」く火照らせた両頬、「垢」じみた萌黄色の毛糸の襟巻、霜焼けの手に三等の「赤」切符。対照的に、書かれていないのは二等の切符の青、二等客車の窓下の青帯。
憂鬱blueな「私」。二等と三等の区別を弁えない愚鈍な小娘に苛立ち、二等客車の主然と「巻煙草」に火をつけてみるのですが気休めにはなりません。『煙草と悪魔』の言によれば煙草は悪魔とともに持ち込まれた舶来品です。燻らせた煙の中から悪魔が頭を擡げるでしょう、憂鬱を司る忌々しい青い悪魔blue devilsが。
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一七九九年
青い悪魔について思い出されるのは、英国の風刺画家一家クルックシャンクCruickshank家の画布で跳梁跋扈するコミカルな眷属でしょうか。アイザック-ジョージ父子の作品、とりわけ父アイザック(一七六四–一八一一)による、一七九九年の作品《青い悪魔に苛まれるジョン・ブル John Bull troubled with the blue devils!》は眼目です。
赤光を放つ暖炉の前で佇む、英国の寓意像ジョン・ブルJohn Bull(一七一二- )が、榾火より濛々と立ち込めてくる煙に紛れる青い悪魔blue devilsに揶揄われている画。群がる悪魔ばらの正体が一々明記されてあって楽しい。
茶税tax on tea、塩税on salt、酒税on wine、家屋税on house、窓税on window、
といった具合。首領は所得税tax on income(一七九九-一八〇二、一八〇三–一八一六、一八四二- )で、呱々の声をあげてから二度絶命するも、そのたび復活為果せて今なお健在の悪鬼で、日本にも開国に託けた同族(一八八七- )が。調髪料税tax on hair powder(一七九五–一八六九)という珍奇な絶滅種も見えます。税taxの分類taxonomyで、鬼神学Demonologyも興味が尽きません。
閑話休題、暖炉の赤光に照らされるジョン・ブルという構図が赫やかな小娘を凝視する「私」、という形に似ていて、面白いでしょう。かつては一等で栄華を誇ったジョン・ブルが世界大戦を経て青息吐息でパクスブリタニカの終焉を嘆く大正八年、一九一九年の二等客車ではあったのですから。
勿論僕自身も諷刺画の中の一人になることは覚悟の前である。
露西亜に辛勝、ポーツマス条約(一九〇五)を交わしてから列強としての自意識が過剰な「十三四」(=1919-1905)の大日本「小」娘が三等の切符を握って二等に乗り込む一九一九年の諷刺的一文。この作品の読み方がここで決まります。
諷刺画は煙を吐いて動き始めます。ジョン・ブルは膝の上に夕刊の二曲一隻を据えて小娘と一線を画し、
するとその時夕刊の紙面に落ちていた外光が、突然電燈の光に変って、刷の悪い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前へ浮んで(…)
汽車は横須賀線に多い隧道の最初のそれに入り、
もう狂女はいつの間にか、電燈の明るい橋がかりをしづしづと舞台へかかつてゐる。
屏風を立てたが、映る世間がつまらないという。「講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告」。大戦は流血淋漓の惨状を極め、嘗てない数の「死亡広告」を生み、パリ「講和」会議へ。米大統領の民族自決のスローガンは極東の新婦新郎の関係を危うくして、新婦が新郎へ離婚届を突き付けたのが三月一日。成程「三月三日」の夕刊らしい。
「私」には「平凡な出来事」なのだそうで、青は癒されません。卑俗な小娘が、三等の切符を握って恬然と屏風の向こうに坐っているのが思い出されて不快感が募るまででした。
この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。
「象徴」symbolとして観れば、渡しの舟は世界。時間軸たる線路を沿って進み、未来は夢に綴られてゆくか。然にあらず、「隧道へはいつた一瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覚」有り、いきおい在りし日を想う夢幻能の謡本とはなるのです。
暫く舟を漕いでいた「私」が気付いた時には、小娘が彼方から此方へ席を移して硝子戸を開けようとしています。開国までの苦心惨憺を演じようといいます。
何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸は中々思ふやうにあがらないらしい。あの皸だらけの頬は愈赤くなつて、時々鼻洟をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しよに、せはしなく耳へはいつて来る。
攘夷論を抑え込もうと洟すするとか、こちらの相好を崩させるのに余念がない(?)。隧道の口は迫ります。
いつしか又も暗となる 世界は夜かトン子ルか[原文ママ] (…)
迫り来る世界の夜weltnacht、蒸気機関が絶え間なく吐く黒煙の成す暗。硝子窓が開くと「同時に」夜になるのは必然でしょう、果たして何かを忘れる、忘れたことも忘れた後、倦怠の悪魔blue devilsが飛跳ねる夜になる。
汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。さうしてその四角な穴の中から、煤を溶したやうなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になつて、濛々と車内へ漲り出した。
夜になる。明治のチャーター船には息苦しい煙が立ち込めます。産業革命でやられた咽喉に煙が染みてジョン・ブルは苦しいでしょう。小娘はどうでしょうか。
狂女は桜間金太郎氏である。僕は二の松へかかつた金太郎氏の姿を綺麗な気狂ひだなと感心した。
咳きこむジョン・ブルのすぐ横では小娘が「二」等客車の窓から身を乗り出して、旧来の陋習を破り智識を世界に求める日本を体現してみせる。「どうだろう物になるだろうか」。
元来咽喉を害してゐた私は、手巾を顔に当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかつた。が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戦がせながら、ぢつと汽車の進む方向を見やつてゐる。
小娘のターナー(一七七五-一八五一)的奇行が猿学の欧化を嘲って絶妙の書きぶりです。《雨、蒸気、速度—グレート・ウェスタン鉄道 Rain, Steam and Speed – The Great Western Railway》(一八四四)の蒸気機関車はテムズ川に架かる橋を渡るのでしたが。
狂女は地謡の声の中にやつと隅田川の渡りへ着いた。
交わされる言葉の一つも無い『蜜柑』なので、地謡というのは尤もでしょう。渡しの舟は世界の夜を辷りぬけて蜜柑乱落の場面を迎えます。鄙に救いはおとずれるでしょうか、以下の様です。少し長いですが全文。
しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を揺つてゐた。やつと隧道を出たと思ふ――その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。…………
私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。
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「私」と小娘の行き着く終点の様を描いているのは、先の《青い悪魔に苛まれるジョン・ブル》を踏襲した子ジョージ・クルックシャンク(一七九二-一八七八)の作、《倦怠 The Blue Devils__!! 》でしょう。一八二三年作。「現代のホガースmodern Hogarth」の名を馳せた挿絵画家にも是非御協賛賜りたい。
この絵でもジョン・ブルは暖炉の前の椅子に腰かけていますが、赤光を浴びせていた暖炉の火は消えています。居間living roomを占拠する小さな悪魔たちが振戦譫妄delirium tremensの治療薬代の請求書を突きつけ、人生の惨めさを説き、手首を切るための剃刀を差し出し、縊死のための縄を手配する……。炉の前で頭を抱えて顔面蒼白のジョン・ブル、血の通わない彼の手より零れ落ちてうつ伏せに喘ぐ蝶の翅に覗くENNUIの大文字が、この絵を統べるキーワードです。
「退屈な人生を僅に忘れる事が出来た」という「私」もやはりENNUIからは逃れられません。恐ろしい哉、小娘の未来を占う暖炉の火を、憂鬱が飲み干してしまうのです。ジョン・ブルが夢から醒めて「昂然と頭を挙げ」ると、小娘は「何時かもう私の前の席」に坐っていて、
「私」と彼方の小娘 $${\text{∽}}$$ ジョン・ブルと青ざめたる暖炉、
果たして小娘の気風characterが一八二三年の暖炉と照応して、こうなります。
小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。
「不相変」?「赤」く火照らせた両頬、「垢」じみた萌黄色の毛糸の襟巻、霜焼けの手、三等の「赤」切符……。「赤」は何処へ。暖炉の赤光同然に小娘から突如「赤」が消えてしまいます。小娘は血の気を失って、や、落命やも。なのに「私」はそんな小娘を見て、初めて青を忘れることができたというのです。
私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。
吸血鬼文学―――「明治以後、再、渡来した彼の動静」(『煙草と悪魔』)はここに明らか。夜叉は能舞台にて垢抜けた小娘を前にして完全犯罪の愉悦に浸ります。小娘を絡め取った魔手の前、黄昏の蜜柑乱落は間違いなく不幸な風景です。読んで、葬送の辞に代えたいと思うのです。
隧道を抜けたところには踏切りの柵の向こうで「三」人の男の子が汽車を待っていたのでした。
その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。
男の子たちの頬にも死の兆が在るのはなぜでしょうか。
成程子役を使はなかつたのは注目に価する試みかも知れない。が、素人の僕などには論ずる資格もないと共に、論ずる興味もないことである。唯僕は梅若丸の幽霊などの出ないことを少しも不服に思はなかつた。いや、実はかう云ふ時にもわざわざ子役を使つたのは何かの機会に美少年を一人登場させることを必要とした足利時代の遺風かとも思つてゐる。僕は兎に角「隅田川」に美しいものを見た満足を感じた。――それだけ云ひさへすれば十分である。
「足利時代の遺風」を庇護し続けてきた武家社会も硝子窓がばたりと落ちて間もなく御仕舞。「わざわざ踏切りまで見送りに来た」三人へ小娘が餞別を贈る夕景の裡にはМонументальная пропаганда、足利三代木像梟首事件を仄めかしては能文化の主に弓を引く、空前絶後の逆まの謡曲『蜜柑』が朧げながら見えています。
幕末、尊攘運動の最中、過激な討幕派により天誅を下された逆賊の生首三つが、京は三条河原に並んで処刑場の腥風を点景していました。
話頭は變るが、近頃流行るアイコノクラズム即ち先祖傳來の偶像を叩き壞すといふことは誰も仲間入がして見たいやうな痛快な仕事だ。維新の際に足利將軍の木像を斬首したたぐひだね。
政変と骨絡みの偶像破壊。開化の後も然り、厭離江戸を唱える汽車が古刹を一瞥してからの偶像破壊を、廃仏毀釈と呼んできました。時間軸を見守る三人は過去、現在、未来を悉く照す三世仏をも髣髴とさせます。横須賀沿線ならば鎌倉五山の一山として名高い浄智寺、その御本尊です。
「乗せさせ給へ渡し守、さりとては乗せてたび給へ」と云ふ地謡の声のをさまると共に、狂女は片膝をつきながら、立ちはだかつた渡し守の前に、消え入りさうに合掌した。
王政復古により発足した明治新政府は祭政一致の理念の下に神道国教化策を展開して、明治元年には神仏判然令を皮切りにそれ以前の神仏習合の伝統を廃しました。記紀神話に相容れない神仏、延喜式の神名帳に悖る神社仏閣一切が左道とされたその有り様は、神社と寺院を表すのでしょう「藁屋根や瓦屋根」の先で、踏切り番が大幣を振るって祓いをする部分に巧く表されていると思います。
いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を揺つてゐた。
燎原の火の如くに広がった廃仏毀釈の運動が実際のところ浄智寺にまで及んだかどうあれ、男の子たちが「目白押し」して「小鳥のやうに声を挙げ」る鳥様式で、王政復古の膝許にあって被害の甚大だった法隆寺の三尊像と二重写しでしょう(!?)。『龍』の舞台となった興福寺また、廃寺同然に零落した一寺でした。
明治五年の太政官布告第一三三号によると、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」とあり、その御蔭か男の子たちは「この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着て」います。彼らは線路の脇で万歳をして「いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせ」、
隣にゐた英吉利人も細君と顔を見合せながら、ワンダァフル・ヴォイスとか何とか云つた。
異人の耳にも声の嘆きは聞こえていません。
そして蜜柑が布告みたいに「空から降ってくる」。小娘が「懐に蔵してゐた」果実は乳房の謂いでしょうか、「凡そ五つ六つ」で一尊に二つずつ、とか。蜜柑の果肉に見舞われる如来たちの肉食妻帯の光景?
ジョン・ブルの方は「況や妻子を養ふ以外に人生の意味を捉へ得ない」鈍物なので、
小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
と呑気に近代化を諾います。弟たちは「奉公先へ赴かうとしてゐる小娘」と逆まに、拓落失路の人となりましょうか、
ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。
弟たちの行方も、誰も知らない。そして「何時かもう私の前の席に返」った小娘、さえも……。
思えば「五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム」の布告が「三月三日」の旅路の前途を告げていたのでした。端午の節句無くして昇龍もない。作品も理解されません。
バアナアド・シヨウはバイロイトのワグナアのオペラを鑑賞するには仰向けに寝ころんだなり、耳だけあけてゐるのに限ると云つた。かう云ふ忠告を必要とするのは遠い西洋の未開国だけである。日本人は皆、学ばずとも鑑賞の道を心得てゐるらしい。その晩も能の看客は大抵謡本を前にしたまま、滅多に舞台などは眺めなかつた!
匠気と言えるのでしょうか、謡曲『蜜柑』の謡本に齧り付いたまま一度も観劇に与らなかった者皆を愚弄する。この「繊巧の病」を誰か、知らないか……
「云ひやうのない疲労と倦怠」を復誦してもう一つの遡行が始まります。
私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。
おれは散歩を続けながらも、云ひやうのない疲労と倦怠とが、重たくおれの心の上にのしかかつてゐるのを感じてゐた。
日比谷公園。日は未だ暮れぬ園、薄明り漂う中、何を尋め行く歩みでしょうか。木の間の小径の彼方には、明治年間に渡来した篠懸の黄の葉が「露」に洗われ時代を付け、干戈の残響を囁くのでしょうか。
夢路の秋に沈く葉、それを懐手して眺める寒山と、またそれを掃く拾得の箒のおかげで、落ち葉は江戸のそれと感じられるといいます。「おれ」は歩を進めて園の橋を渡り、すれば日も逆昇るのでしょうか。路ばたの水の澱みには「青ざめた薔薇」が項を漬けて眠り、これは今は亡き渡しが残した留守模様atributeでしょうけれど、なぜここに。
その夜この方流沙河のほとりには、あの渡し守の山男がむくつけい姿を見せずなつた。唯後に残つたは、向うの岸の砂にさいた、したたかな柳の太杖で、これには枯れ枯れな幹のまはりに、不思議や麗しい紅の薔薇の花が、薫しく咲き誇つて居つたと申す。
薔薇の馥りは苔や落葉の匂う「黄昏」のうちに一糸を引き、廃れていった大川の渡しの記憶を手繰り寄せます。
その後『一の橋の渡し』の絶えたことをきいた。『御蔵橋の渡し』の廃れるのも間があるまい。
秋の園が「おれ」のメランコリックな夢の底に沈んでゆくのでした。
(…)おれの心の中には、今までの疲労と倦怠との代りに、何時か静な悦びがしつとりと薄明く溢れてゐた。あの二人が死んだと思つたのは、憐むべきおれの迷ひたるに過ぎない。寒山拾得は生きてゐる。
「寒山拾得は生きてゐる」、と「おれ」は独り言ちて悦びます。江戸情緒杜絶の嘆きを情零分藝十分の謡でもってする皮肉は、この透き通った小径にはありません。日が沈み園が見限られることの哀愁だけを鋭く感じさせます。「帰らなんいざ、田園将に蕪せんとす」(『入社の辞』)、汽車に乗った頃さえも早や懐かしい。
(…)この小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、――その理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。
寒山拾得は生きてゐる。永劫の流転を閲しながらも、今日猶この公園の篠懸の落葉を掻いてゐる。
『蜜柑』中、開化を恨む眼だけが浮いていて、秋の園を歩む男のそれのようです。
汽車の道行は、世界の夜weltnachtを予告していた『鉄道唱歌』の続きに、
(…)地震のはなしまだ消えぬ 岐阜の鵜飼も見てゆかん
とあるように『疑惑』の舞台「岐阜県下の大垣町」も通ります。
ちょうど明治二十四年の事でございます。御承知の通り二十四年と申しますと、あの濃尾の大地震がございました年で、(…)
大震は、大正十二年九月一日の大震は、東京を殺してしまいます。「麦稈帽はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京」(『大正十二年九月一日の大震に際して』)、江戸の名残も烏有に帰しました。翌年大正十三年の三月には、In Japan Noh traditions are inherited. と嘆して(?)謡曲『蜜柑』を鑑賞する『金春会の「隅田川」』が初出を迎えます。
どうして「角田川」でなくて「隅田川」なのでしょう、いつかの世之助を乗せた渡し舟は「角田川」を悠々と辷っていたはず。
もう彼是三十年ばかり昔の事だ。私が始めて、江戸へ下つた時に、たしか吉原のかへりだつたと思ふが、太鼓を二人ばかりつれて、|角田川《すみだがは》の渡しを渡つた事がある。
が、幾星霜を経て大川の唄もいよいよ聴こえ難い。伝統の杜絶えてゆく惨状が能舞台にも透けて見えてしまった大正十三年、金春流の「角田川」を称することさえ憚られた『金春会の「隅田川」』の絶望をその書字にみてよいでしょう。
女の忍んですすり泣く声もする。見棄てられた三世仏の恨みも一山に蟠りつづけているのでしょう。頽廃の謡曲は吸血鬼に鮮血を捧げ、ドラキュラDraculaもとい龍の子son of draculは躍り出るでしょう。浄智寺の境内は魔処であるらしい。
「此処だ。此処だ。丁度その杉の根の処だ。」
何、惣門をくぐるには及びません。こちらをご覧あれ。美青年の霊が、龍の子の名が知れます。
浄智寺は、鎌倉幕府第五代執権北条時頼の三男である北条宗政が亡くなった折、その菩提を弔うために一二八一年頃に創建されました。
当時は中国(宋)からの渡来僧も多く、最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も十一寺院に達しました。現存する鐘楼門(しょうろうもん)や本堂の様子などより、「宋風」という当時の中国の様式をうかがうことが出来ます。
本尊の木造三世仏座像は神奈川県の重要文化財に指定されています。また「木造地蔵坐像」(国指定重要文化財)や「木造韋駄天立像」(市指定重要文化財)は鎌倉国宝館におさめられています。
境内は国の史跡に指定され、寺域は源氏山ハイキングコースにある天柱峰まで広がっています。その境地は昭和の初めから文化人に好まれ、映画監督小津安二郎、日本画家小倉遊亀などが暮らしていました。境内の墓所には作家澁澤龍彦(…)
龍の子は龍で、「澁澤龍彦」といいます。「う」、「噓から出た誠」……
澁澤龍彥(一九二八–一九八七)、北鎌倉の書斎に潜み、螺旋の如くに蠱惑的な文を曳き続けたこの左巻きの蝸牛はバスティーユの堕天使サド侯爵Marquis de Sade(一七四〇–一八一四)を戦後日本に紹介し、訳書『悪徳の栄え』がわいせつ文書として摘発されてからの所謂サド裁判をきっかけにして一九六〇年代の下地を黒く染めていったのでした。
ある種の「悪趣味」を全面的に引き受けた彼ですから『蜜柑』についても、
(…)作品のなかに、(…)、装飾過多、気まぐれ、技巧、貴族的孤立、病的に堕しやすい極端などの欠点のみを(…)
見出すだけには留まらないでしょう、
(…)世界を寓意や暗喩や象徴によって解釈する、人間精神の本質的な傾向のあらわれとして眺めた場合、(…)いわゆる悪趣味は、新たな光のもとに、これまでとまったく違った相貌を呈するだろう。(…)要するに『狂熱の追求』であり、『今日では、それをシュルレアリスムが代表している』と述べたのは、エロティシズムの哲学者ジョルジュ・バタイユである。
といった風です。無意識探求の自動筆記とはほど遠く、巧みに巧んでの『蜜柑』は「シュルレアリスム」というよりはむしろ……。いや、むにゃむにゃとその言葉を口にするにはまだ少し眠たすぎます。六〇年代にはこういう試みを受け入れる土壌が本邦にもあったことを横眼に『蜜柑』についてもう二、三。
同じく大正八年に書かれた『龍』について謡曲『春日龍神』の影響が既に指摘されているように(五島慶一(一九七二 - )氏の論文を参照のこと)、謡曲を引き合いに出して『蜜柑』を読んで可笑しくないのですが、同時期に意識されていたらしいのが『春日龍神』という点はあらためて重要だと思います。
明恵上人が天竺向けて日本を出立しようとする。と、龍神八百体がそろいもそろって顕現して、大陸なんかよりこっちのほうがずっと佳いので海を渡ってくれるな、という。
列島のナショナリストを喜ばせそうな謡ですが大正年間にあってどう受容されたかを考えるに、三・一独立運動(万歳事件、ともいう)あらしめた朝鮮の植民地化、五・四運動の引き金を引いた中国進出、南満州支配に及ぶ大日本の入唐渡天(?)に対して否を唱えるいわゆる小日本主義(経済的にも利が少ないから「小娘」は「小」娘らしくしよう、という主義)が連想されるでしょうか。
「小」娘がJohn Bull仕草で張り切ると死ぬか喰われるか、そんな『蜜柑』の諷刺が成立する背後に小日本主義をみて取るならば、上人の出立を食い止めようとする『春日龍神』もまた『蜜柑』に影を落としている謡曲の一つに数えられるでしょう。
最近出版された本に、西原大輔(一九六七- )氏の手になる『室町時代の日明外交と能狂言』(笠間書院、二〇二一)があります。仏旗の五色が映える書影が眼を引くこの本では、当時における中国(明)の国力低下が『春日龍神』のプロットの成立につながった、という議論に一章が割かれており、『春日龍神』はそもそもがアクチュアルに内外を反映する謡でもあったということであるらしい。
この一面を図ってか図らずか引き受けている『蜜柑』との新旧の対比は興味深いでしょう。『春日龍神』は足利将軍がそれを観じて、我が意を得たりと微笑む内容でなければならなかったのですが、『蜜柑』では開化風景にかこつけて御成りになった将軍梟首までも可能なのでした。時代かな、過激に並走する「東洋の草花の馨りに滿ちた、大きい一臺の電氣機關車」も見えていました。観る者が変われば話も変わり、書かれるべくして書かれた開化の新作能に破顔一笑。
ジョン・ブルが小娘と二等客車で鉢合わせるのもこれ、アクチュアルな外交の描写と言えるのか、その路線で読むならば小娘と接点をもつ数少ない登場人物である男の子三人を三世仏かあるいは足利三代と見立てただけで終わるのではいささか物足りない。蜜柑乱落の景色、蜜柑の色は「鮮」で、沿線の三世仏も因む仏教の伝来を考えてみて、あるいは植民地主義者の「私」が、男の子たちを小娘の「弟」すなわち同祖であると指摘するのをみて、そうか、蜜柑を投げるのって植民のメタファーでありうるのか。
とこう口を辷らせてみれば、こちらも大正八年作の『疑惑』中、倫理学者の前に幽けく現れた男が指を欠いていたという描写に安重根(一八七九 – 一九一〇)の影を見てとる小谷瑛輔(一九八二 - )氏の衝撃論考まではあと一歩です。Vampire or empire、吸血鬼の文学を帝国の文学と言い切るにはしかし、まだ道具立てが足りていません。
芥川氏が「鮮」の一字にどれほど執着したかは、後段(第四、五章)にて見ることにしましょう。「鮮」がただの副詞ではなく、過剰な意味を伴う一字であることが知れます。「何のためにすべてがこんなふうになっていたか」明らかになるでしょう。
ところで、
僕の桟敷へ通つたのは「花筐」か何かの済んだ後、「隅田川」の始まらない前のことである。
とは狂女の大盤振舞(そんな能舞台がどこにある(笑))、怨む女は一人でない、かも。
このころはまだ「十三四」の「小娘」も、おごりの春の美しきかな、しかし不惑にしては窮屈な列島に押し込められて「檻に入れられた」「小」犬然となるのでした。果たして、遠吠えの余韻が八月の耳を微かに震わせもします。オデュッセウスの忠犬アルゴスみたく、戦争へ向かった主人の帰還を待ち続けるのが小犬の惨めな役目であったとも言えそうです。小犬に始まって小犬に終わる『蜜柑』であったことを芥川氏、見届けることはなかったですが。
とまれ綴錦の衒想文学読了。と、ここに文芸雑誌『新潮』の大正八年五月号が在ります。「一、蜜柑」「二、沼地」として二作は「私の出遇った事」という総題の下に併載されていて即ち二作は二つで一つ、併読が事態の然からしむるところのようです。
(第一章 おわり)
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