年賀状とソーシャルディスタンス
こんなことしてていいのか、という毎日が続く。しかし、振り返ってみると、今までの人生、大方の時間は「こんなことしてていいのか?」と思いながら過ごしてきたようにも思う。もう、年の暮れだというのに。
みみずの生体機能が、一般人の2/3位ということは以前も述べた。そう告げられるまで、大した自覚はなかったのだが、毎年4月の学校の定期健康診断、血圧測定の度、医師や看護婦に尋ねられた。「立ち眩みないですか?」「眩暈とかありませんか?」別段感じない、と答えると、いつも怪訝そうな顔をされた。
昭和天皇のご崩御手前のヒソヒソ声の日々、みみずの血圧と同じ位だな、と思ったものだ。恐れながら、スレスレ生きている連帯感を感じた。
みみずはかなり大人になるまで、「頭痛」が何かわからななかった。今ではさすがに理解したが。友達や家族が、「頭が痛い」と訴えても、見た目はまるで普通なので、演技しているのではないかと疑っていた。まるでシンパシーなし。「大丈夫?」とか、当たり障りのない対応はしたが。
最近になって気が付いた。思うに、生まれついてのぼんやりで、眩暈やクラクラしているのが常なので、いつもと異なる感覚としてとらえることが出来ないのではあるまいか。
ぼーっとしたまま生きている。
今日は何とか年賀状を仕上げねばならない。いや違う。仕上げるというのはあらかた出来上がっていて、フィニッシュ、に使う言葉だ。目下、何も手を付けていないのだから、年賀状に取り掛からなければならない、とするのが正しいだろう。
知り合いに、年賀状撲滅委員会を標榜する人がいる。虫の好かない人なのでソーシャルディスタンスを極力多めにとっているが、その一点だけは共感する。とりわけ、人から頼まれるのは真っ平御免。自分の分さえやっとなのに、やめてくれ。
で、年賀状の意味、よくわからない。存在意義が年々薄れているのは誰しも頷くところでしょう。でも、貰っちゃうと次の年も出す。電話すればいいのに。メールすればいいのに。
しかし、こうも思う。これも一つのソーシャルディスタンス。電話で声を聞きたいとは思わない。メールに返信が来るのもうっとうしい。ラインを交わすほどの仲じゃない。
年賀状なら、送りっぱなしで片が付く。一応義理は果たせ、世間体も保てる。これで、次の年まで、相手との間に十分な距離を保つこのができる。
さあ、年賀状。
頭痛と眩暈でクラクラしてきた。
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