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4年間同じネクタイだった

人間不信は、人間を丸ごと信じてしまうという誤りから生じる。お釈迦さまも同じことを言っている。愛するから悲しみが生じる。だから愛さないようにしなさいと。

人でも物でも、執着するところから苦しみが生まれるので、いっそのこと執着をなくせば人間は解放されるのだそう。でも、それって、生きること自体難しくない?食べることにも無欲になってしまったら、干物になるしかない。何事にも悩まない、苦しまないということは、裏返せば何事にも喜びを感じないことになりそう。

生きる意味があるのか、無いのでしょうね。そもそもこの世は「無」なのだから。色即是空。

が、悟りの境地なんて凡人には別次元のことなので、かりそめにそこに目標を置きながら、日々努めていきましょう、と言う具合に解釈している。

学生時代、ユニークな先生がいた。4年間、服装が変わらなかった。背広、パンツ、ネクタイも。みみずが受講していない時は服装が違っていたのかもしれないし、同じネクタイを何本も持っていた、と言う可能性はあるが。唯一違う出で立ちを見たのは、大雨の日、服はいつもと同じだったが、膝までの黒いゴム長を履いていた。

学部の中で一番の若手で、よく学生と間違えられる、と言っていた。「学校見学ですか」と聞かれた時はショックだったとも。一部の隙もない緻密に計算された講義は人気で、ぼんやり頭のみみずでさえ、講義の後は「勉強したなあ」と言う気持ちになった。

みみず達が卒業前の最後の授業は、いつもの調子とは打って変わって、エモーショナルな内容だった。その先生自身、4年間通して携わったのは初めてのことだったようで、黒縁眼鏡の奥の、熱を垣間見たように感じた。

ある出来事が頭から離れないと言う。山奥の学校の教師が、足の悪い少女を片道1時間超、行きも帰りも、2年間だか、3年間だか、毎日背負って通学させた。美談として地元の新聞にも掲載された。それからしばらくして、その教師が、その生徒にいたずらしようとしたという事件が起こった。無論、よからぬことだから、世間の人々は寄ってたかって教師を指弾した。

それはそうだろう。だが、彼はここで問題提示。雨の日も、雪の日も、風の日も、夏の暑い日も、毎日、あなたは誰かを背負って山道を歩いたことがあるのか、と。いたずらしようとしたことが責められるのは当然だ。しかし、それ以前の、長く苦しい善行の日々が、一緒くたにされて貶められるのは、違うのではないかと。

一旦誰かを愛すると、痘痕もエクボ。逆に、不信感を抱くと、坊主憎けりゃ袈裟まで。

どうしたって一括処理の方が楽だから、皆そっちに流れる。善い人と悪い人、敵と味方、得か損か。ラベリングして振り分けたつもりでも、そのラベリング自体、どうなのよっていう話だ。

蜘蛛の糸、さすがお釈迦様の眼力。

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