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読まれるということ

誰かに見てもらいたくて
誰かに読んでもらいたくて
誰かに共感されたくて
書いているわけではないのだけど


ごくたまに

お〜!!読まれてる。。。

ッていう記事が現れる。


そうするとやはり嬉しい。

しかし承認欲求的なもので嬉しいのではない。


なんていうか、いつも言っているのだが
存在していることが
他人を通じて認識できるというか

あ、私、他の人から見えてるんだ。
って確認ができる感じがする。


当たり前に自分が存在して
当たり前に他人から自分が見えていると思っている人が多くて
自分の感覚はちょっと変なのだろうか?
と思うことも多々あるけれど


やはり私はそこを、
自分が存在していることを
当たり前だと思いたくない。


おかげさまというか
私以外の誰かがいてくれるから
私が社会に存在できると
やはり思うから。


いつだったか昔
量子力学の話で
観測者問題の話を聞いた時に
あ〜私の感じてたことは
宇宙の理だったんだ、と少し感動したりもした。

現時点では理論は少し変わってるかもだけど。


だから私が書いた記事を
誰かが読み、スキしてくれると
確実にその人の中に私は生きていることになる。
存在することが可能になる。


それが嬉しいのかもしれない。


時々プチバズる記事は
私が読まれた分だけ
確実に存在していることを
証明できるんだ。と。


最近はプチバズらない。


かと言ってもっと面白いものを書かなきゃ!
みたいな強迫観念にも襲われない。


自然体で
自然に存在を確認できればそれで良い。


昨日はnote上で
私は3回誰かの観測により存在できた。


今日は何回存在できるかな〜


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