私が障害者になっても。

私は現在、右脳被殻出血による左上下肢麻痺のリハビリのため入院中です。
あと2か月もすると退院して、実家での生活が始まるのですが、正直なところ病気発症以前の健常者としての生活は取り戻せるかどうかはわかりません。リハビリを続けていけばそれなりには戻るとはいわれてるのですが、じゃあそれが100%戻るのか、50〜80%くらいが限界なのか、いろんなところで人の話を聞いても、自分で調べてもよくわからない。ひとつハッキリしてるのは、私はしばらくの間、もしくはこれからの残りの人生を障害者として生活していかなければならない、ということだ。
ーーー障害者ーーー
私は1978年生まれの人間なので、小学校の道徳教育で障害者に対する考え方とか、対応の仕方とかを授業で学んだ世代である。
身体の一部が不自由な人は、一人では出来ないことが多く、周りの人の助けを必要としています。そういう人を見かけた時はすすんで人助けをしましょう。決して障害者を差別してはいけません。みたいな感じだ。
当時は特に不思議に思うこともなく、大変なんだなぁ、くらいにしか思ってなかった。
話は変わりますが、私は身内に障害者がいた。母親の兄で私にとって伯父にあたる人だが、全聾、所謂聴覚障害者であった。
聴覚障害者の多くはそうなのだが、自分の声が聞こえないのでスムーズに喋ることができない。耳の遠い老人が声が大きくなるのと同じ原理であろう。伯父は結婚していたが、奧さんも同じく全聾の人だった。二人は手話でコミュニケーションを取っていて、私たちはゆっくりはっきりと喋ることで伯父は唇の動きでだいたいのことを理解することができた。伯父が片言で喋る言葉を聞き取るのは結構苦労したが、なるべく簡単な単語で喋ってくれたので当時小学生の私も理解することができた。
伯父は地元で理髪店を営んでおり、近隣住民の常連さんも結構いた。
この伯父さんが驚くほど多趣味でフットワークが軽く、デカいカメラと三脚を担いではいろんな場所へ出掛けていた。私もそんな叔父と過ごすのが楽しくて夏休みに遊びに行ったりしたものでした。この時人生で初めて一人で新幹線に乗る。
上記のコミュニケーションの取り方で、花札や麻雀を教えてもらったり、おみやげにちょっとエッチな雑誌を持たせてくれたり、母方の兄妹の子供は私以外みんな女の子で叔父夫婦には子供がいなかったので、相当可愛がってもらったのを覚えてます。それと同時に、障害者っていってもそのへんの人となんら変わらない、差別するなんてとんでもない、同じように一人の人間として扱うべきだという感情が芽生えます。

時は流れに流れて2014年、私は親戚の経営するパチンコ店の店長として長崎県のとある店鋪にいました。
その店舗は、本社が既存の店舗を居抜きで買い取り、そこそこお金をかけて内装に手を加え、リニューアルオープンした店舗でした。
入口もトイレも完全にバリアフリーで、スロープや手すりもついていて車いすユーザーのお客様にも利用しやすい店舗でした。
パチンコ店の遊戯台に設置されている椅子は、固定されていますが、実は簡単に取り外しができるので、車いすの方はこの台で遊びたいと店員に伝えればすぐに椅子を外してもらい、自分の車いすのままで遊技することができます。
私が店長を務めていた時期にも車いすユーザーの常連のお客様がいました。
50代の男性である彼は、基本的に来店してから選んだ台を帰るまでずっと打ち続けるタイプの人でした。
私は個人的に「おっちゃん、気ィば遣わんと打ちたい台他にあって移動したかったらいつでも言わんね〜」と、声をかけた。この距離の近さが田舎のいいとこだろう。「店長あんがと。」彼はそう言いながらも今日も一日中同じ台を打っていた。
彼の車いすには
カテーテルとバルーンがついており、どうやら腎臓の疾患で人工の膀胱らしい。バルーンに溜まった尿を便器に流しているのを目撃したこともある。
「おっちゃん大変やねー。しんどかったら掃除のおばちゃんに手伝ってもらおうか?」「いやいや、自分の小便なんか他人に触らせられんて。」と頑なに他人からの世話を拒否した。私は伯父のことを思い出した。
当時もう伯父は亡くなっていたが、そういえば伯父も過剰に障害者扱いされるのを嫌っていたなあと。自分でできることは自分でしたいのかなと思った。
そんな中で事件は起こる…。
とある客からの目撃情報で、どうやら車いすの彼がバルーンの尿を洗面台に流しているようなのだ。
私はすぐに事実確認に彼のところへ行った。
話を聞くと、バルーンは意外と許容量が少なくてこまめに捨てないと直ぐに溢れてしまうのだと。その時は結構ギリギリだったので急いで洗面台に流したのだと。
「事情はわかりました。次からは余裕を持って処理してください。緊急を要する時は清掃スタッフに言ってください。清掃スタッフの中には介護施設で働いているいわばプロの方もいますのでその方でしたら安心でしょう。」清掃スタッフの方にも、
「こういう事情で声を掛けられたら手伝ってあげてください。ゴム手袋とかタオルとか必要であれば経費で落とすのでレシート持ってきてください。」と説明して納得してもらった。
車いすの彼にも、「次やったらしかるべき対応をとらせてもらいますからね。」
と、出禁を仄めかす通達をした。
しばらくは平穏だったが、1ヶ月後くらいか、休みの日に携帯が鳴った。
「店長、例の車いすのお客さんがまたやったみたいです。」
私は急いで着替えて店に行き、彼と面談をした。
彼が言うには、一度楽な処理の仕方をしてしまったら便器に捨てるのが面倒だということ。洗面台に流した後は自前の雑巾で掃除をしたからいいだろ、ということ。
私は、
「おっちゃん、病気になる前はこの辺で食堂やってたんだって常連のおばあちゃんに聞きましたよ。自分のやってる食堂で客が流しで小便したらどう思いますか?」
「もう来ないでくれって言うなあ。」
「申し訳ないけどそういうことです。今後出入り禁止でお願いします。」
彼は小さく頷いた。
後日本社に報告をすると、
地元住民の常連さんであること、さらに障害者である人を出禁にして大丈夫かと言われましたが、「私は障害者として対応したのではなく、1人のお客様として対応しました。本人も了承済みで問題はありません。」とキッパリと言い切った。
いまだにどんな対応が正解だったのかわからない。もっといい対応策があったかもしれない。ただ私はこのときの対応に後悔はしていないし、似たような場面に遭遇したら同じ対応をするだろう。
そこには障害者に対する差別も、過剰な特別扱いもなく、必要であればサポートはするがあくまでも1人の人間として相対するというわたしの信念のようなものがあるのかもしれない。
これから障害者になるにあたって、自分一人で全部やろうとせずに、できないことは周りの人の手を借りることを恥じずに、しかしながらそれを当然のことだと思わずに、感謝の気持ちを忘れないようにありたいと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?