自分にとって面白い映画とは

この前『うまれる』という映画を観る機会があり観賞した、あまり自分では観に行かないジャンルの作品だったので興味はあった。
観賞した感想としては自分には合わないものだったと思う。
邦画というよりドラマ含め日本の映像先品の変なところが凝縮されていた、叫んだり過激な演技をして他の作品より深いことをやってます感。
明らかに自分達のアイデアが乏しくて俳優頼みになりすぎている。
俳優の負担がデカすぎるしそれが演技の高みなんて思いたくはないし、
それが凄いことという風潮はやっぱり異常。
作品自体の質が高ければ俳優達も報われるだろうが、『うまれる』に関しては明らかにそうはならんでしょの連続でつまり実際の心情の変化や行動を無視して監督が描きたい事を映像にしているだけだからただの過激な事をやってます的な自己満映画だと思った。確かに映画とは本来監督の自己満を映像化するものではあると思うが、なぜなら軸がなければそもそも完成しないからだ。
だとしても質の良い作品、傑作と呼ばれるものは確実に実際の人間の行動や心情を無視しない。ヒットとは共感であり感動というのも共感であるからだ。面白くない作品は大体自分が撮りたい作りたいものを優先して色々な所を無視するから結果何も心に残らないことが多い。俳優にあんな負担を負わせているのだからせめて質の高いものが評価をされてほしい。結局日本のエンタメはリスクを取らないにも関わらず、あれこれ言ってそんなセンスがないにも関わらず評価を受けてしまってる人が多すぎる。
改めて日本のクリエイティブは「段取り」に集約される。
本当に凄い作品を作るよりも「段取り」が良い人が評価される、「段取り」とは過去の参照である。新しいものを作るには過去の蓄積がないのだから
「段取り」が悪くて当然である。ただそれだと今の日本では評価をされない。もはや各々が勝手に思ってしまっているだけだろうが、かなり根深い問題である。だからこそ今の日本のクリエイターは作品自体に自分のアイデンティティが感じられず一過性のものが多い「段取り」がうまい人が評価されてしまっているのだろう。故に世界との差は開く一方なのだろう。
改めて僕はただ過激だからとか変なことをしてるからという理由で評価されているであろうものは苦手である。なぜならそういうものが評価されてしまうせいでスポットライトが当たるべきものの機会を奪っているからだ。
結局そういった状況がクリエイティブを衰退させていく。
ただ、本当のクリエイターはそういう状況をお構いなしに現れるのだが。


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