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ベストセラー「反日種族主義」を要約してみた 前編

 日本でも韓国でも話題となった「反日種族主義」は、反日感情が覆いつくす韓国における今までの歴史観を根底から覆すもので、両国で驚きをもって受け止められています。出版された本は日本語版で350ページほどにもわたり、多忙な方が全文を詳細に精読するのはなかなか大変かと思いますので、各章を要約してみました。

 なお、あらかじめお断りしますが、この記事は特定の思想信条によらず、あくまで本の内容を要約したものです。この本の筆者である李栄薫はソウル大学教授を退官後、李承晩学堂という研究所を立ち上げ、現在もそこに所属しています。李承晩は韓国初代大統領ですが、人生の大半をアメリカで過ごした人物です。そのため、李承晩の名前を研究所に用いたことから、筆者にはアメリカ型の自由主義的価値観、韓国における保守的な立場にあることをあらかじめ認識して読んでいく必要があるでしょう。


日本語版序文/はじめに


 日本語版序文では筆頭執筆者である李栄薫が主宰する「李承晩学堂」の名前の由来となった李承晩についての言及がなされています。李承晩は大韓民国初代大統領ですが、竹島の占拠など過激な反日政策でも有名です。筆者は彼を朝鮮人で初めて西洋の自由の概念を理解した人物であり、それを国家の理念に据えた偉大な人物であるが、同時に今に至る反日感情のきっかけを作ってしまった人物として否定的にも捉えています。そして正の側面を評価するためには負の側面の克服も必要と考え、あえて李承晩の名前を付けた研究所を創始し、そこで反日文化、歴史について研究しているようです。

 韓国語版とも共通の「はじめに」では研究者にとって何よりも重要なことは事実に基づく学術研究であり、それは国益にそぐわない場合でも同じであると述べています。

プロローグ


 本編に先立って、韓国にはびこる嘘の文化を憂いています。韓国は人口当たりの詐欺関連での裁判件数が世界トップクラスであり、裁判大国のアメリカをも凌駕すると指摘しています。そして嘘が蔓延した結果、人々が他人を信用しなくなり、息苦しい社会が作られていると述べています。

 嘘をつくことが当たり前の文化であるため、メディアや政治、さらには学問においてさえ嘘が根底にあります。
会社の主義主張に近い候補者を勝たせるために、メディアが裏取りもせずに対立候補のネガティブキャンペーンを行ったり、嘘の歴史教育を受けた世代が裁判官になったため、徴用工訴訟も原告の言い分を鵜呑みにした判決がなされました。

 韓国の歴史学における日本統治時代の研究は、1965年以降に朝鮮総連系の研究者が流布した嘘の拡散が根底にあります。そして、朝鮮半島では長らく、善悪よりも超越的な霊媒を意識したシャーマニズムが文化として根付いていて、そのことも真実を軽視し、自分たちの考えをゴリ押しする価値観を形成しました。

 前述のとおり、李承晩は西洋的な自由を重視した人物でしたが、韓国において普及したのは自由に基づく個人を尊重した文化ではなく、シャーマニズムに基づき韓国・朝鮮という1つの集団を極度に意識した種族主義だったのです。

1 荒唐無稽「アリラン」


 朝鮮半島ではアリランという名の歌が伝統的な歌として有名ですが、ここでは趙廷来という歴史小説家が執筆した「アリラン」というタイトルの小説シリーズを糾弾しています。この小説は日本統治時代の朝鮮および朝鮮人について書き記したものですが、歴史小説でありながら事実とは大きく異なり、朝鮮人が日本人に虐殺される場面を何度も登場させています。そして人々の共感を呼んでベストセラーになってしまったために、多くの人々がそれを史実のように受け止めてしまったとしています。一例を上げれば朝鮮における土地調査に抵抗した農民が警察に即決で銃殺されたり、千島列島の基地工事に従事した労働者が工事後に軍事機密を漏らさないように虐殺される場面が描かれています。しかし、史実を調査した限り、そのような可能性は低いと筆者は考えています。日本の蛮行をねつ造し、国民がそれを受け入れる種族主義をここでは憂いています。

2 片手にピストルを、もう片方には測量器を


 1910年に韓国が日本に併合されると、日本は朝鮮半島の土地測量事業を始めました。その際、農民に所有する土地を申告させましたが、農民は「申告」という概念を理解していなかったために期限までに申告せず、未申告の土地は朝鮮総督府に収奪されたというのが韓国における歴史教科書の教えです。

 しかし朝鮮王朝時代には3年に一度土地の申告が行われていたため、いくら学のない農民といえども「申告」の意味が分からないという主張は成り立たないと筆者は指摘しています。さらには1945年の解放後に収奪された土地を取り返す運動が行われた形跡がないことからも、収奪自体がなかったと結論付けています。

 この章のタイトル「片手にピストルを、もう片方には測量器を」は日本統治下の土地政策を研究した学者が本の中で付けたキャッチフレーズで、広く国民に知られることになった言葉ですが、その研究者は日本統治時代の台帳を調べもせずに研究を結論付け、嘘の歴史をまた1つ作り上げました。

3 食糧を収奪したって?


 日本統治下の朝鮮では、米を生産してもその多くが日本に収奪されたというのが歴史教科書における記述となっています。しかし、実際には収奪ではなく輸出され、適当な代金は支払われていたとされています。日本と朝鮮が共に豊作だった年に米価下落を防ぐために日本が朝鮮からの米流入量を制限しようとした際には、現地の新聞がそれに反対する記事を記載しています。朝鮮側は日本に米を輸出し、その代金で経済が回っていたからです。

 ちなみにこの時代の朝鮮側の農民は当初よりは暮らしがよくなったといえ、貧しいままでしたが、それは米が収奪されたからではなく、朝鮮王朝時代からの小作農が連綿と続いていて、米を生産しても利益の多くが地主の懐に入っていたためでした。

4 日本の植民地支配の方式


 韓国の歴史教科書では、日本の統治においてはとにかく不平等、差別、収奪といったネガティブなイメージで埋め尽くされています。しかし実際にはむしろ逆でした。

 日本の朝鮮統治における最終目標は朝鮮の同質化、そして日本の一地域として遜色ないものにするというものでした。そのため、法律や経済なども混乱が生じない限りは日本本土と同様に適用されました。むしろ経済活動などにおいて本土と異なるルールを適用した場合、朝鮮に移住した日本人からクレームが付くこともあり、その際は日本並みのルールに改められるということもあったようです。

 財産権など個人にかかわる権利も同様です。朝鮮人を日本人と遜色ないようにするためには彼らを日本人と同様に扱う必要があります。そのため、財産を収奪されるといったことはありませんでした。個人間で日本人が朝鮮人を差別することはあったでしょうが、国の政策として公式的に差別が認められるということはなかったのです。

5 強制動員の神話


 強制動員、いわゆる徴用はあったのでしょうか。わずかな期間ですがありました。1944年9月から1945年4月頃(それ以降は玄界灘の制海権が奪われたため、半島から船で移送できなくなった)まで戦局の悪化と日本本土の労働力不足を賄うために徴用が実施されています。徴用は徴兵と同じように法律により強制されるものであるため、拒否することはできません。この短い期間においてはきちんとした賃金が支払われていたかはわかりません。

 しかし、1939年から1944年までに実施されていたのはあくまで募集、斡旋です。日本の若い男性は徴兵されてしまったため、徴兵が免除されていた朝鮮の若い男性が労働力として日本に渡りました。ただ、あくまで日本の働き場所を朝鮮で広報し、自主的に応募するというもので、日本では労働の対価としてきちんとした賃金が支払われていました。住居も会社が用意した寮に入り、朝鮮人同士で生活していたようです。

 韓国では以前、戦時中に日本で働き、賃金が十分に支払われなかった人々へ国が補償したことがありました。しかし、在籍を証明するような書類はないため、多くの人は当時の写真を提出しました。この写真に写された人の多くは健康的な体形をしていました。韓国の歴史教科書に登場する「徴用工」とされる写真では、ガリガリにやせこけた男性が写っていますが、それとは対照的です。現代のブラック企業のように劣悪な環境で働いていた朝鮮人も少しはいたのでしょうが、多くは日本人と同様の環境で働いていたのです。

6 果たして「強制労働」「奴隷労働」だったのか?


 反日学者は戦時期の日本での労働環境について、朝鮮人は日本人より低賃金、重労働だったと主張しています。しかし当時の人々の証言は異なります。日本人と朝鮮人は同様に働いていました。お金が貯まれば送金したり、酒や風俗に使っていたのも同じです。

 賃金差があったのは熟練度の違いからでした。
日本人は同じところで何年も働いていましたが、朝鮮人は戦時期に労働力不足を補う形で来日したため、経験差があったのです。これは炭鉱における死亡率にも現れます。日本の若者は徴兵されたため、死亡率の高い重労働を朝鮮の若者が担うことになり、日本人より死亡率が高くなったのです。しかし、これも労働に見合った対価が支払われていました。

 炭鉱での厳しい労働環境の写真を反日学者は用いて説明していますが、これは戦後に低賃金の日本人労働者を写したものを勝手に使用しているに過ぎません。戦時期の朝鮮人労働者ではないのです。

7 朝鮮人の賃金差別の虚構性


 韓国の歴史教科書では日本で働いていた日本人と朝鮮人の間には賃金差があったと記述していますが、これには理由がありました。

 炭鉱労働者の給与は成果給だったため、熟練度によって賃金差が発生しました。朝鮮人は半島からの出稼ぎで、一定期間働いたのちに故郷に帰ったため、技術が上達して生産量が上がる前に辞めていたのです。このことは残業にも表れ、技術の高い日本人労働者が残業することが多かったため、残業代となって差がつきました。さらに、日本人労働者は家族で暮らし、朝鮮人は単身出稼ぎだったため、家族手当の有無に差がありました。

 賃金差別の話は1960年代に朝鮮総連系の朴慶植という学者や日本人の左派系学者が根拠に乏しい中で流布した考えに過ぎません。
彼らがまとめた資料集自体からもよく読むと、賃金差には明確な合理的根拠があったことがわかるのです。

8 陸軍特別志願兵、彼らは誰なのか?


 日本統治下の朝鮮は日本の一地域でしたが、朝鮮人は朝鮮独自の戸籍に登録されて参政権がなく、代わりに徴兵の義務もありませんでした。半島の北部では朝鮮王朝時代の封建的な社会が薄まり、学を修めればそれに比例して出世していく比較的自由な社会でしたが、南部な勉強しても旧両班層に虐げられ、努力が実を結ばない環境でした。

 そのため、戦時期に朝鮮人の特別志願兵制度が始まって手を挙げたのは、南部で学のある若者でした。特別志願兵は朝鮮各地域の道知事による推薦を経て総督府が審査するなど、選考に当たっては厳しい選抜が行われました。立身出世のための一縷の望みを日本の軍人になることに賭けたのです。

 彼らの中には戦死後に靖国神社に祀られ、日本のイデオロギーに利用された者もいます。一方で生き残った者の中には独立後に韓国のエリート軍人になり、朝鮮戦争で指揮したものもいました。結果的に日本の軍事教育の遺産が朝鮮戦争にも生きたのでした。

9 もともと請求できるものなどなかった-請求権協定の真実


 第2次世界大戦において日本が侵略した東南アジアの国々に対して、戦後日本は賠償しました。これは外国に対して勝手に侵略し、戦場にしたことに対する賠償です。しかし、韓国は当時日本領であったため、その件では賠償を請求できません。国際法的に植民地支配に対する賠償は認められていないのです。

 韓国が日本に請求できる権利の1つが財産でした。日本から引き揚げた韓国人が日本に残した財産に相当する金額は請求することが可能です。しかし、反対に日本人が韓国に残した財産についても日本は韓国に請求できます。これを相殺すると日本の請求分が高くなってしまいます。そのため、終戦間際に徴用された韓国人に対する賠償も加えられましたが、韓国人は当時日本人だったため、日本人被徴用者と同程度の補償が妥当になります。これは健康なまま徴用が終了した者には補償なし、死亡または負傷した者のみ補償するというものです。そしてこれが日韓請求権に含まれたため、徴用工の補償もこれにて完了したのでした。

 なお、徴用工への補償分を韓国政府は徴用工に配当せず、経済発展に用いました。そのため、金銭的補償を受けていない元徴用工が補償金を請求するのであれば、韓国政府に求めるのが妥当なのです。

 ちなみに、日本は韓国への補償とは別に無償3億ドル、有償2億ドルの経済支援も行っています。これは日韓の請求分を相殺すると韓国側が当初求めていた補償額を大幅に下回り、国民に示しがつかなくなるため、妥協策として行われました。前述のとおり植民地支配に対する賠償は国際法的に認められていませんので、これは賠償ではなく、あくまで途上国に対する支援というのが日本側の立場であり、韓国世論が賠償と受け止めたのとは認識に差異がありますが、国交正常化のためにはやむを得なかったものでした。しかし、その認識の相違が現在に至るまで両国間に禍根を残すことになっているのです。

10 厚顔無恥で愚かな韓日会談決死反対


 この章からは今に至る韓国政治のその場限りの行動が読み取れます。

 日韓国交正常化交渉が加速したのは反日色の濃い李承晩政権が倒れ、民主党の張勉政権が発足した時のことです。この政権はクーデターにより7ヶ月で崩壊しますが、後を継いだ朴正熙政権も日韓国交正常化については基本的に張政権の方針を引き継ぎました。しかし、民主党の議員たちは下野したとたんに朴政権の国交正常化交渉を屈辱外交と非難したのです。民主党政権のままでも金銭交渉で当初の要求額を満たせないのは目に見えていましたが、立場が変わると態度も変わったのです。

 韓国政治は内政、外交どちらにおいても理念より対立する党や相手を貶め、政権維持もしくは奪取することを至上命題
としています。そのため、一貫性のないその場しのぎの政治が目立つのです。


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