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信頼するという本気さ

少しの間、疲れて何も考えられない日が続いていた。

今は小康状態と言えるかもしれない。

何も考えられない日々の前、一体自分は何を考えてたんだっけとnoteを開いてみた。

「期待されたことを返す」そんな事を書いていたんだ。いま読み返すと、少し遠い過去のよう。

あれからまた、日々の中でつまづいたり走ったりしながら、またしても自分らしく、深く自分について考えてたなぁと思う。

今の自分にとってのテーマは「相手を信頼する」だ。

これは自分がかつて取り組んだ事のないテーマで、大変ではあるけど少しずつやっていきたいし、すぐ出来なくてまた壁にぶつかるだろうけど、少し進むことで、絶対に自分にとって良い事があると、思える事だ。

私は、長く一緒に働いてる人に「もっと信頼して欲しい」という感情を持っていることに気づいた。なぜかというと、もうびっくりするくらい、私の言ってることは信頼されてなかったのだ。私が言ったことをハナから「いや、それは違うでしょ」と言われることが多い。それをすぐ認めてしまう自分もいる。

なんでやらせてくれないんだろう?なんで信頼してくれないんだろう?

そんな気持ちで1杯だった。

でも急に気がついた。私はその人を信頼してるかと問われると、本当の意味では信頼してなかったのだ。これに気がついてびっくりした。

信頼するって一言では分かりづらいけど、「頼りきる」「依存する」でも「媚びへつらう」でもなく、「意見が違っても、必ず自分の事を考えてくれて、最良の選択をしてくれている」という意識だ。

信頼するって、実は空中ブランコみたいに、手放しで相手に委ねる瞬間を心地よく受け入れる事、この感覚なんじゃないかと思った。

その感覚がないと、常にヘラヘラしてしまったり、何か「認め」られないとここに居ちゃいけないと感じたり、相手の知っている話題しか提供出来なくなって辛くなったり、もう本当に、辛かった。

今の到達点はここ。

これだけの短期間で、自分の考え方・見方が変わっているのは、いい事だと信じたい。

以前の記事に書いた「期待される」ことへの気付きがあって、今の考えがあるのだから。

こんな風に自分の内面を掘り下げるのは楽しい。皆さんはこんな事考えたりするのでしょうか。

時々どうしようもなく居場所が無く感じるけれど、膝を折りながらも、じっと踏みとどまり、こうやって兵站を練っているような自分が好きだ。

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