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東孝先生のこと

4月3日、僕の空道における先生の先生が亡くなった。
71歳だった。
僕の先生の先生は東孝(あずまたかし)という方で、先生の先生だと長いので、以後「東先生」と書く。

最初にその訃報を知った時に湧いて出た感情は、「怒り」だった。

なんで東先生を殺すねん。
誰が「次に死ぬ人」を決めてるんか知らんけど、東先生は、まだやろ。
マイナー競技の空道やけど、2025年の青森国体で、やっとデモ競技になるとこまでこぎつけてん。
来賓席とかに座ったはる東先生を見て、
「東先生、喜んだはる!」
とか思いながら、ほくそ笑みたかったんや、俺は。

胃癌だったそうだ。
2019年11月の北斗旗(空道の全国大会)でお会いしたのが最後だった。
その翌年からのコロナ禍で大会は無くなり、地方在住の僕たちは先生にお会いすることも無いまま、当然先生はお元気なんだと思っていた。
だって先生は、そのちょっと前まで全国の試合や審査会や合宿に来られていたし。
普通、還暦を超えた「偉い先生」というものは、実技的なことは若い弟子に任せて自分は神棚に乗っているものだ。
だが東先生は、道着を着て自らが先頭に立ち、基本や移動の号令をかけ、技術の模範を示し、時には組手に加わったりもされた。
夜はガンガン酒を呑み、豪快に笑い、かと思えば末端の道場生にアドバイスを送り、またかと思えば有力選手に頭骨が割れるような頭突きをしていたり(理由は不明)、その後のカラオケもガンガン歌い、もちろんその間も酒をガンガン呑み、どれだけ盛り上がってもラストは『仰げば尊し』の合唱で締め、そのまま誰かの部屋でさらに呑み、「明日6時からランニングなんだから、さっさと寝ろ!」と言う頃にはもう4時半ぐらいだったりして、結局ほぼ寝ずに走り……。
時折、「この人は僕の親父と同じぐらいの年」だということを忘れていた。

当然、先生は100歳まで生きると思っていましたよ。

「東孝」という名前は、格闘技・武道の世界ではビッグネームだけど、noteを見ている大部分の方はご存知無いと思うので、Wikipediaを貼っておく。

1976年、極真空手全日本選手権優勝。
1979年、極真空手全世界選手権4位。
1981年、極真空手では反則であった、手による顔面攻撃、投げ技、寝技を認める空手団体としての、「大道塾」を設立。
2001年、「空手」から、独自の新たな武道である「空道」へと競技名を変更。

……こんなことを書いても、noteを読んでる大多数の人にはピンと来ないだろう。
僕だって、東先生の経歴や戦績を書き連ねたいわけではない。

2011年。忘れられない年。
あの、地震があった年。

空道は仙台発祥の武道で、春の全日本は仙台、秋の全日本は東京で行われるのが慣例となっていた。
しかし、この年の春の全日本は当然仙台でやれるわけもなく、代わりの開催地や日程もはっきり決まらないままに、地区予選は行われた。
予選が終わり、その打ち上げの席での議題は、当然全日本をどうするか。
開催地はどこがいい、日程はいつがいい、当然予選どころではない東北の選手はどうするのか。
めいめい意見を飛ばし合っている時に、先生の携帯が鳴った。
中座して、離れた所で着信に応じる先生。

「おー!! ○○!! 無事で良かった!! 家は大丈夫か!?」

先生は声が大きいので、被災した仙台の支部長からの電話であることは、すぐにわかった。

「えっ……!!(絶句) ……そうか、元気を出せよ……。俺に出来ることならなんでもするから、遠慮なく言ってくれ……」

戻って来た先生は、目に涙をいっぱい溜めて、

「……○○の奥さんが、地震で亡くなったそうだ……!!」

そう、絞り出した。

2014年。
世界大会の年。
秋の世界大会に備えて、月に1回東京で日本代表の強化合宿があった。
僕は代表でもなんでもなかったけど、「希望者は交通費自腹で参加しても良い」とのことだったので、毎月東京に行っていた(代表の交通費は連盟持ち)。
早い話が、自腹切って「代表選手のサンドバッグ」になりに行くわけで、初回はあんなにいた自由参加者も、2回目からはガクッと減っていた。
それでも継続して参加する自由参加組には、当然「あわよくば代表に潜り込んでやろう」という下心があるわけで、代表は代表で「そんなことさせるか!」って気持ちなわけで、とりあえず毎回ボコボコにされた。
その頃の僕は腰にヘルニアを抱えていて、案の定無理な稽古に腰が耐え切れず、ある日の強化合宿中に動けなくなってしまった。
稽古場所の体育館から宿である総本部道場まではまあまあ距離があり、荷物を抱えて歩いて行けるのか……。
腰をおさえて足を引きずって歩く僕を見つけた先生は、
「なんだ羽島、腰痛いのか? 車に乗ってけ」
と言われた。
「いえ、大丈夫です。歩きます……」
「いいから乗れ!」

運転は先生で、先生の娘さんと、春に高校を卒業したばかりの内弟子くんも乗っていた。

「なんで俺が運転してるんだ! 〇〇!(内弟子くんの名前)早く免許取れよ!」
笑いながら、先生は言った。

その時の内弟子くんが、後に先生の娘婿になるとは、その時は考えもしなかった。

2018年。5月。
北斗旗全日本。
僕は、息子ぐらいの年齢の期待の新人に意識を飛ばされた。
失神したのでその試合の記憶はあまり無いのだが、僕はタンカに乗せられるのが嫌過ぎて、駄々をこねまくっている(後で映像で確認した)。

勝負は時の運だから、負けることは仕方がない。
その選手のカウンターは素晴らしかったし、それの直撃を受けたんだ。
だから、負けたことにはなんの異論もない。
でも、タンカだけは勘弁してくれ。
そんなものに乗せられて、晒し者になりながら退場するなんて、死んでも御免だ。
ちゃんと、自分の足で歩いて退場するから。
でも、やっぱり脚は言うことを聞いてくれなくて。
自分で歩こうとしてはよろめいて倒れそうになり、その度に審判の方やセコンドが慌てて抱きとめる。
3回ほどそんなこんなを繰り返した末、最後は無理矢理タンカに乗せられた。

その日の夜。
大阪に帰る飛行機を降りてスマホの電源を入れたら、僕の直接の師匠から何度も着信があった様子。
師匠に確認してみると、大会の打ち上げの席で東先生が僕のことを心配して、何度も電話をかけさせたらしい。
「羽島、俺はお前の気持ちわかるぞ。タンカなんか乗りたくないよなぁ……。今日は酒吞むなよ。しばらく稽古は休めよ」
そんなことを、伝えたかったらしい。

代表と生徒の距離が近い、小さな団体の話だと思われてるかも知れない。
日本ではマイナーな空道だけど、世界60ヶ国以上で行われている競技で、特にロシアではゴールデンタイムに放送されるメジャースポーツなんだ。
普通、そんな大きな団体のトップは平凡な選手に興味は無いし、名前も覚えない。
僕みたいに「別にトップ選手でもないのに、やたら東先生との思い出がポンポン出てくる人」は、全国にたくさんいるはずだ。

昔、先生の著書を読んだ時に、「自分自身が空道の試合に出れなかったことが心残り」ということを、書かれていた。
自分の考える理想のルール、理想の武道を作り、その第一回大会に出るつもりでいたら、「あなたが出たら誰が大会運営するんですか」とのことで、断念したそうだ。

あと何十年かして、今の選手があらかたお亡くなりになった時に、天国で北斗旗やって下さい。
その北斗旗には、先生も選手として出て下さい。
天国なら、先生のボロボロだった膝も治ってると思うので、ガンガン蹴っちゃって下さい。
それであの〜、もしよろしければ、僕もその北斗旗天国大会に出させてもらってよろしいでしょうか……?
今度は素直にタンカに乗りますし……。

東孝先生の、ご冥福をお祈りいたします。
長い間、ありがとうございました。
押忍







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