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悪い人にはいつかバチが当たりますか?


人を傷付け
そんなことにも気付かず
自分がいつも正しいと思い
自慢の塊のような人種に

仏様は
何の罰も与えないのでしょうか

そのような人種は
何の罰も与えられず
好き勝手のまま死んでいくのでしょうか




「苦しみの手放し方」

私が僧侶として初めて出した本
のタイトルです


「苦しみ」
は誰かから与えられるもの
ではなく

自分が自分の心の中に
執着を持ち続けるから


これを手放せば楽になるのに
なかなか手放さない


冷蔵庫の中で
異臭を放っている肉を
「臭いです」
「気持ち悪いです」
と保存している

破棄すればいいのに
大切に保存しておられる


自分の心の中で
重しとなる想いを
「辛い」
「苦しい」
と自らで握りしめている

手放せばいいのに
一生懸命に握りしめておられる


仏教では心を
容れ物
のように捉えています


この心の容れ物には
様々な要素が溶けている 

その溶けている成分が
悪なるものに偏れば
私たちの心は
悪の心に傾いていく

この悪の心をもってして
思考し
口から出る言葉は
悪意に満ちているし
その行いは
悪なるものになるのです

一方で
心に溶けている成分が
善なるものに偏れば
私たちの心は
善なる心に傾いていく

善の心をもってして
思考し
口から出る言葉は
善意に満ち
その行いは
善なるものになるのです


世の中には
様々な人間がいます

自分にそぐわない人間を
嫌う 憎む さげすむ


心に溶けている成分が
これら悪なるものに偏っていれば
怒りの言葉に満ちてくるのです

自分は
そういう人になりたくない

善き人になりたい

という思いが

悪なるものへの偏り
を起こしてしまっている
のかもしれません


道徳を意識していない時には
道徳は気にならない
でも道徳的なことを知ると
急に非道徳的なことに
腹が立つようになる


例えば
公の場にポイポイと
ゴミを捨てることは
良いことではない

そんな想いを強く持っていると
誰かが公の場に
ゴミを捨てることが
許せなくなります

私がごみを拾って
キレイにしたのに
ゴミを捨てるなんて
とんでもない人間だ

と腹が立つのです
怒りが出てくるのです


善き人になりたい
善き人でなければならない

その思いが強ければ強いほど
そうではない人に
反発してしまうのです


自分が懸命に
こだわって
手放そうとしている性質が
他の人に見えたとき
腹が立つのです


自分が得たいことも
手放したいことも
あまりにも強いこだわり
を持ちすぎると
自分にとって

次なる怒りを生む

という現象が起きてしまうのです


自分は
そういう人になりたくない
自分は
こういう人間でなければならない

と強く思い

どこかで
自分を我慢して
自分を取り繕って
頑張っているのに

あの人は

お構いなしに振舞っている

許せない


嫌い 憎み さげすむ

結局怒っているのです

自分の中に

苦しみを作り出している

のです


手放せばいいのに

一生懸命に
握りしめている

のです

こうでなければならない

という

執着
苦しみ

になってしまうのです

自分はこういう人になりたい
自分はこうで在りたい

そう意識すればいいだけです


お釈迦様は

[そういう人に
罰を与えないのでしょうか]


お釈迦様は仰いました


「人間は平等です」


何に対して平等なのか

「愚かさにおいて」
平等なのです




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