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「世間」の人称代名詞

想像される「世間」

一週間ほど前、世間は小室圭さんの髪型について話していたらしい。

「らしい」というのは、賛にせよ否にせよ、意見らしい意見を語ってる人を私は直接見たことがほとんどないからだ。

この曽我部先生の批判を、私はもっともだ、と思った。

周りでこの話題に触れる人は、必ず「自分はそれほど興味がないが」「どうだっていいと思うけど」と断りをあらかじめ入れている。断った上で、批判している人はこう言いたいのではないか、しきたりを大事にする人なら、こうするんじゃないか、という話をする。テレビやネット記事で話題にされている場合も、大体はそういう体で書かれる。つまり、他人の髪型を気にしている人は、自分ではなく、どこかにいる他の誰かであることを強調している。

それは私も理解できる。私もそういう「口うるさい側」にいたいとは思わないし、自分は比較的自由が好きな方だと思っている。

「世間」が話題に上がる時、それはだいたい第三者である。ここに居ない他者である「世間」が、何を求め、何を良しとし、何を禁じるか。これを、会話をしている者同士が互いに考察し、推測していくことで、目に見えない「世間」に輪郭を与えようとする。

こうして世間は、その場ではあくまで不在でありながら、力のある存在として「私」と「あなた」の間で作り上げられてしまう。みんな「世間」を疎ましく思いながら、しかし「世間」というものの立場に立って考えた上で、「世間ならこう考えるだろうなあ」という考えを述べて、その存在を本物にしてしまう。

この個人の想像力が実は実体のない「世間」の正体であると、多分、私が大学生の頃にきいていたメディア論や政治学系の議論ならば、結論付るんじゃないかと思う。

しかしどうも、この「小室圭さんの髪型を実際に気にする人」というのが世の中に実在しているらしい。本当は「そんな奴居ないのに大げさだよね」で話を済ませたかったのだが、そうはいかないのだ。ニュースサイトやそのような記事への言及ツイートを探してみると、結構激しい言葉が見つかる。そうなると、思っていたよりこの「世間」というやつは身近な存在なのかもしれない。

不思議である。どうも私は、能動的に探してみたり、いくらか推論を挟んでみたりしないと、「世間の声」の実体をつかみにくいようだ。

投票嫌いな人々

話は変わる。

私は、以前選挙において特に投票が嫌いな人をやや疎ましく思っていた。

前にこんなツイートを見た。もう見つけられなかったが、確かそれは次のような内容だった。

自分に選挙に行くことを強く勧めないでほしいし、情報もあんまり見たくない。政治のことはよく分からないし、投票をしたことについて責任を取りたくもない。分からないから、意思を持って投票に行かないと決めた人を責めるような空気には、どうかしないでほしい。

これを読んだとき、私は随分取り乱した。正直なところ、このことを思い出すと、今でも全身の毛が逆立つような思いが一瞬だけ蘇るほどである。

私の言い分はこうだった。少なくとも今の社会において、およそ市民が持てる武器は世論の形成と投票くらいである。自分は自由に生きたいから選挙権は全部捨てますというのは、「権利って扱いが難しいし面倒だから強い奴に飼ってもらったほうが良いよね」と主張することとほぼ等しい。

これは決して大げさな話ではない。議論や批判、投票こそ民主主義の本質であり、傲慢な政治家たちを震え上がらせることのできる唯一の武器であり、歴史を通じて人間がようやく勝ち取った財産なのである。

確かに、日本の選挙制度は完璧ではない。汚職もちょこちょこある。だが、全く信用のできない選挙管理委員会によって票数が任意に操作されたり、選挙結果が軍人の暴力によって覆されたりする可能性は限りなくゼロに近い。他方でそういう国は、世界を見渡せばまだいくらでもあり、なんならそっちのほうが多数派かもしれないのだ。そんな中で、一応それなりに安定した投票システムを持ち、またシステムに欠陥があればそれを民主的なプロセスを経て改正できる仕組みがそこそこ確保されており、軍が選挙によって選ばれた政治家によって十分にコントロールされているというのは、まさに奇跡のような状態なのである。

それを責任を取りたくないからとか、分からないから放っておいてくれというのはいったい何事か。けしからん。ならば二度と政治の話を、まして政治に興味がないという発言さえも一切なさらぬがよろしい、などとかつて政治学大好き青年だった私は拳を振り上げて怒っていた。

変化

今、私はこの意見に対して、以前ほど憤れない。

それはなぜかと言うと、彼らの「加担したくない」という理屈が少しだけ理解できるようになったからである。恐らく彼らにあるのは、面倒そうだからかかわりたくない、という心理だけでない。きっとそこには、「圧力をかける側になりたくない」という極めて鋭い嗅覚があったのではないかと思う。

彼らの目に「政治の話をする人」はどう映っただろうか。ネット上で選挙について熱く語り、党派性によって偏った批判を交わし合い、ときに相手の人格をも責める我々の姿は、なんとも醜く、無様で、しかも恐ろしい存在だったのではないか。それはちょうど私が「小室圭さんの髪型を気にする人」という存在を想像するために、いくらかの飛躍を試みないとたどり着けず、そしていざ実際に探し出して見てみると、本当にしょうもない意地の張り合いをまざまざと見せつけられるような耐え難い居心地の悪さに辟易したのと、同じだったのかもしれない。

どんなトピックであれ、政治的話題は独特な用語が用いられる。そしてそれが用いられる時、発言の主は自分の方が相手方よりも賢く見えるよう、慎重に言葉を選びがちである。しかしそんな周到さにもかかわらず、同時に多くの人が本気でムキになって、日常ではめったに聞かないような強い言葉で相手を痛罵したり、謎のジャーゴンにまみれた不可解なイデオロギー的言動を勢いよく繰り出したりしてしまう。これは実に珍妙だし、自発的に「こうなりたい」とはなかなか思えないだろう。

にもかかわらず我々は、幅広い層の人々に「投票へ行こう!」と訴えている。それは、彼らには「俺たちに加担してくれ」あるいは「お前はどっちの味方なんだ?」に聞こえていた可能性があるのではないか。なるほど、ちょっと迷惑な話である。私も多分、「小室さんの髪型の是非について決選投票を行うから参加してくれ」と言われたら、頼むから放っておいてほしいと即答するだろう。

ならばやはり、彼らは選挙という制度に対してルサンチマンを燃やしているというより、積極的に「世間」などになりたくなかったのではないか、と思う。いや、実際のところ、誰も世間になんかなりたくないのではないか。世間というやつは常に「なんか口うるさい他人」であり、その姿を正しく想起するにはいくらか想像力をかき集めなければならない。しかし想像できたとしても、進んでそれになろうとすることには、どうも嫌な感じがつきまとうものである。

「世間」の人称代名詞

こうやって考える時、世間に加担したくないという考え方には、一定の合理性があるようにも思える。

しかしそれでもやはり、私はあえてそこには大きな矛盾が潜んでいると思う。「世間」は決して、人が思うほど第三者などではないからである。

実際のところ、我々は何らかの形で必ず「世間」に加担している。あらゆる政治的マジョリティからフラットに距離を取ることなどできない。そしてマジョリティに立っている時、「世間」とは「私」なのだ。「世間」とは決して三人称ではなく、一人称なのである。ところが、「世間」という名前で呼ぶ時だけ、私達はそれを自分とは無関係な他人の行使する圧力のように扱ってしまう。

それは欺瞞ではないか。本当は、私達は誰も一人称の世間から自由であることなどできない。

しかしきっと、選挙を嫌がる人に「君も観念して一人称になれ」と言い続けることが正解ではないことも、私はなんとなく分かってきた。というか、「選挙の大切さを理解できない人々の存在は、解決すべき問題である」という見方そのものから、一度離れなくてはないのだ。

そこから先の考察は、まだ整っていない。

「主権者教育」、「民主主義社会への参画」、そして「社会的コンセンサスの形成」。こういうキーワードが健全な民主主義を支える核心であると私はこれまで習ってきた。今でもこれ以外の別解は、私にはまだ少しも思いつかない。でも、私が思っているほどには、それらは役に立たないものなのかもしれない。

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