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今改めて考える、真剣な会話のやり方(理論編)

 私はこれから真剣な会話のやり方について長年苦悩し考察したことを述べたいと思うのですが、その前に大前提として言いたいのは、基本的には真剣な会話はやらない方がいいということです。

 一体、どういうことなのか。

 そもそも「雑談」という言葉が示しているように日常会話は真剣にやる必要がないからです。いや、必要がないどころか会話はその性質上、基本的には真剣であることがタブー視されています。つまり、突然真剣な気持ちや本心、実直に感じたことなどを特に何の前置きもなく吐露してしまうと「こいつTPOをわかってないんですけど」などの嫌な印象を持たれる可能性があるということです。

 日常会話に求められるルールや原則についてマニアックに詳細を知りたい方は、是非以下の記事を読んでいただきたいのですが、この記事は人間の会話がなにを目的として行われているのかよくわかっていない人(筆者もその一人です)に向けて書いているので、特に違和感なく雑談や日常会話をこなせる人は読む必要がないというか、読むことで逆に生活に混乱をきたす可能性があるかもしれません。

 簡単にまとめると、通常の生活圏内の会話に求められる機能は以下の二点となります。

⑴目の前の人間がまともであるか、危険ではないかを確認する
⑵ひとまず話の通じるもの同士で融通を利かせてやっていきましょうという雰囲気を出す

見てわかるとおり、誰も内容の話はしておりません。筆者は

「会話なのに内容の話をしていない」

というコロンブスの卵的状況に全く気がつかなかったせいで長年にわたり大変な苦労をしてしまいまいしたが、これは多くの人にとってはさしあたってひとつの常識として受け入れられているものです。あたりさわりのない話、という言い回しがありますが、この時にあたらず触らないように人々が努めているのは、実は特定のテーマ(宗教、政治、思想、経済的状況、性愛の志向など)というよりも、テーマに対応して出力される自分の意見が本意に「あたらず触らないよう」に配慮している、と考えた方がその実態に近いようです。

 ところが、冷静に考えてみると、上の二項目は、項目それ自体が内側で矛盾しているような気配があります。なぜならば、

⑴目の前の人間がまともであるか、危険ではないかを確認する

という目的に関して、本当にその人がまともかどうかは内心の意見を知らないことには判断できないはずです。また、

⑵ひとまず話の通じるもの同士で融通を利かせてやっていきましょうという雰囲気を出す

についても、話が通じるかどうかを判別しているのにも関わらず、誰も内容の話をしていないので、本来であればなに一つ通じあえていないはずです。

 どうしてこのような矛盾が生じるのでしょうか。それは、個人にとっての「まともさ」と集団にとって都合のいい「まともさ」は、真っ向から対立することが多いからです。

 例えばですが、朝の7時半から人間が生存したまま空間に詰められる限界に挑戦し(つまり通勤電車で)なにひとつおもしろくない苦渋に満ちた職場に向かうという発想はどう考えても頭がおかしいし、一人一人が一生懸命がんばって狂人になっているとしか思えない状況です。ちなみに、通勤電車で人が感じるストレスは臨戦態勢の戦闘機のパイロットや機動隊の隊員よりも強いという研究もあるそうです(✳︎)
 ただでさえヤバイ状況なのに、そのヤバさを構成している一人一人も一線を超えた狂人と考えると、生きた心地がしなくなるほどですが、集団にとってはこれができる人が「まとも」ということになっています。筆者はこれはできませんので、OLをやっていたときは毎日「自分がいいと思う時間」にオフィスに到着して怒られていました。しかし、理由を聞かれても上司に伝わる形で合理的に説明することができませんでした。なぜなら、私が時間通りにこないのは、私が「まとも」だからです。それは、集団の理屈からしてみれば「かなりのクレイジー」ということになります。ここに抜本的対立がある。

 軸が異なっているだけでどちらが正しいということもないのですが、個人にとってのまともさというのは、集団にとってのまともさに比べて大抵の場合はかなり不利な立場にあります。
 なぜなら個人としてどれだけまともになっていったとしても、その先には生存というものを崖から突き落として、荒涼とした魂(=肉体の活動を通して現れる精神のざわめきに、それらが不可分に接合されているのだと強い確信を与えるもの)の原風景をまざまざと見せつけてくる狂気のようなものしかないからです。かなり徹底的に突き詰めていかないとここまでのことにはならないとは思いますが、この意味では集団の理屈で「個人としてのまともさ」を維持、堅持している人をクレイジー扱いするのは理にかなっている側面もあるとも言えます。

 しかし、残念ながら集団としてのまともさ、のようなものも突き詰めていった先にはやはり狂気しかありません。それも、個人のまともさの先にある狂気が、ある意味ではその人物の魂に根本的な救済をもたらす可能性がある一方で、集団としてのまともさの先にある狂気というのは誰の魂も救済しないどころか、最悪の場合は各人の肉体と精神を不可逆な領域まで引き裂いて簒奪してしまうというところがあります。もちろんそうなった場合には物理的に死ぬ人も多く出るものと思われます。

 人類は20世紀にこの感じの失敗をやりたい放題にやらかしてしまったので、「集団としてのまともさ」のさらに上位概念として「集団としてのまともさを相互監視する集団」のようなものを置いているのですが、これでは集団の理屈がおちいる狂気の問題を根本的に解決できていないので、いつどうなってしまうのかは誰にもまるでよくわかっていません。ことによると、もう取り返しのつかない地点まで集団の狂気(まともさ)が進行している可能性もあります。
 誰もなにもわからないまま、人類史上最大規模の手探りで場当たり的に全部をしのいでいる、その上ところどころで欲望や支配の原理が暴発してコントロールできなくなっている と、現代の世界秩序をこのように考えるとそんなものが秩序と呼べるのかどうかは大いに疑問が生じます。
 タスクが増えすぎて生き方がままならなくなったまま、ところどころで推敲されていない欲望の原液がダラリと滲出(しんしゅつ)している現代人のライフスタイルを拡大すると、それはそのまま人類全体の最新しのぎスタイルとなってしまうのではないか。
 ギャンブルとかソシャゲの課金をやりまくっている人は、自分が今果たして大丈夫なのか、もうダメなのか、ダメになっているとしたらどの時点でそうなったのか、どれも判断できません。渦中にいる限りは本当に自分らがもうヤバイことになっているのか、それとも大丈夫な感じなのかはわからないからです。人類全体の大丈夫具合もこれに似た状況です。

 この尺度で考えると、例えばツイッターは個々人が自由に発言する公空間としてもう全然ダメだろう(国家間の問題で例えるならば、隣国と泥沼の戦争が勃発しながら泥沼の内戦も勃発し、その上泥沼の世界大戦も勃発し、さらには国内の治安も泥沼になり法律や統治が全く機能していないくらいの状態)と理解できるくらいの終わりが終わっている感がありますが、これは我々がツイッターをインターネットを通じて提供されるサービスの中のひとつとして俯瞰して見ることができる(できない場合もある)からです。たまに戦時下に書かれたエッセイなんかを読んでいると、それでも当然理に生活が遍在している恒常性の途切れなさ、のようなものを見て不思議な感覚になることがあるのですが、ツイッターがこうなっても人は(自分も)ツイートをし続ける、と考えるとまあ大体そんなもんなんだなあ、という気がしてくる程度の感じがあります。

 少々話が逸脱してしまいましたが、これが基本的には(物理的な生存のしやすさだけを追求するのであれば)真剣な会話はやらない方がいいけど、それでも別の側面についてを考慮に入れると真剣な会話を追求した方がいいのではないか、と筆者が考える理由です。

 つまり、「集団としてのまとも」に極端に一元化されないように存在しておくためには、ある程度「個人としてのまともさ」を維持する必要があり、そのためには日頃から会話も多少真剣にやってもいいのではないか、という話をしている次第です。

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