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今改めて考える、真剣な会話のやり方(実践編)

 前項で真剣な会話の重要性について語りましたので、今回はついに真剣な会話の実践的側面について筆者が考えたことを述べていきたいと思います。

 具体的な内容面に触れる前に、筆者が特に強調したておきたい最も重要かつ根本的な点はこれです

「そもそも真剣な会話をするつもりがない人とはあんまり話さない方がいい」


 当たり前かもしれませんが、こちらに真剣な会話をするつもりがあったところで、相手にとってもそうでなければ全方位的に何の発展性もありません。
 いや、発展性がないどころか、むしろ前項で述べたように、ただ一方的に真剣な会話をするデメリットが一挙に降りかかってきますので、本当にやらない方がいいのです。無難な会話は無難な会話として社会通念上必要ですが、常に必要な程度を見極めて、無駄に広げないよう万全の注意を払いましょう。(無駄に広げると命を損します)

 ポイントとしては、つまらない会話というのは実は水面下で相手も「つまらないなあ」と思ってはいるので、それをちょうどいいサイズ感で終わらせたとしても全くマイナスが生じないどころか、むしろタイミングがいい場合はボーナス的な若干の好印象が生じる余地すらあり得るという点です。
 我々は日頃から「苦行を我慢して辛抱すると報われる」という嘘を吹聴されているのでついついいらない場面でも辛抱をセレクトしてしまいがちですが、つまらない世間話においては辛抱の必要は皆無と覚えてください。(ただし、エレベーターの内部や喫煙所など、必要に迫られてある程度の時間滞在する必要に迫られるタイプの施設ではこの限りではありません)

 しかし、真剣な会話をするつもりがある人、とは、一体どういう人のことを指すのでしょう。これについては、真剣な会話のデメリットについて考えていくとある程度見えてくるものがあります。真剣に会話をするデメリットは種々あるのですが、最も大きなものは「物事に対する判断や解釈の責任を負う立場になってしまう」と言えるんじゃないでしょうか。

 これがどんなリスクなのか、については「SNS上での発言において強く制限される領域」について考えてみるとちょっと理解しやすいかもしれません。例えば、Twitterではみな何かを主体的に主張しているような感じに一見見えるのですが、案外そうでもなく、口に出してもOKそうな意見のバリエーションの中から自らの政治的立場(実際に社会的な問題に限らず、応援しているアイドルや観た映画、時事問題へのコメントというかスタンスの表明の仕方まで)に沿ったものを表明していることが多いのです。実はこれは日頃の生活上の会話でも同じです。日常会話の場合は全体的な意見がかなり「ボワッ」っとしているのでわかりにくいのですが、これもある程度言ってOKそうな「ボワッ」とした意見の中から丁度よさような「ボワッ」をセレクトしていっているだけです。つまり、ある人物の生活の中から血肉となって現れてきた意見がそこにあるわけではありません。

 リスクを取らないとメリットも得られないというのがこの世の定石ですが、同様に防御ばかりを重視した会話からは得られるものが本当にありません。したがって、相手が盾を出してきた時点でこちらの剣を収納する、というのが真剣な会話を求めていく上で極めて重要な立ち振る舞いになってきます。ところで、この場合の「盾」「剣」は一体なんでしょうか。この場合

自分の「見解」を発表する=剣
自分の「見解」を秘匿する=盾

と考えることができます。

 しばしば、悪口や露悪的な意見、犯罪歴、性格の悪さの発表なんかを忌憚のない正直な意見だと考えている人もいますが、これは明確に違います。なぜならば、悪口にも「言える悪口」と「まだ言ってOKにはなっていないライブ感のある逸脱した意見」といった違いがあるからです。

 社会通念上見逃されてしまう余地を超えて鋭い視点を持つ悪口は、内容がどうあれなにかしらの地平を開こうとする挑戦マインドがある方向に人の心を揺さぶるエネルギーを放ちます。そしてそのエネルギーは、特定の人物を批判するよりも膠着した現状認識にひび割れを入れるような方向に向かうのであんまり嫌な感じが生じないというか、ある部分爽やかだったりします。
 これは背後にその人物の誠実な自己開示があるからそうなのだと思います。批判は一般的に言いづらい意見が多くなりがちなので多くなるのですが、誠実な自己開示が伴った「褒め」でもこういう現象は起こります。例えば、今では言い尽くされていますが、最初にサイゼリヤを褒めた人が開いた地平なんかもあったと思います。褒める方が批判をするよりも勇気が必要なケースだってけっこうよくあるのです。

世間一般には

・嫌いなものについての話=嫌な話
・好きなものついての話=いい話

というマヌケな解釈がまかり通っていますが、こんなのはものごとに疲れすぎて過激なスピリュチュアル(「マクロで世の中を見たときの途方もない複雑さ」と「ミクロで日々の生活を見たときのやったことしかやったことにならない単純さ」の併存に耐えられなくて、なにか大きな因果論に全ての現象を一元化しようとする悲壮ながんばり)に傾倒しているのと同等の発想です。「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」という漫画のセリフ(『ツギハギ漂流作家』のセリフが改変されて広く知られたもの)がありますが、嫌いか好きかはどちらでもよくて、重要なのはそこに本人の見解が含まれているかどうかなのです。

・「見解」とは

見解とはなんでしょうか。

辞書には

 物事に対する考え方や評価。意見。

見解とは

とありますが、それ自体を掴み取ってじっくり眺めるのはなんとも難しい、どこにあるのかはっきりしない概念です。「読み」や「解釈」という言葉にも似たニュアンスがあります。
 なんでこれを掴むのが難しいのかというと、これを掴もうとしている人間自体がアヤフヤでウヤムヤでかなり高レベルのデタラメさを規範と同時に備えているヤバめの生命体だからです。こういうアヤフヤさ、次の瞬間にはどうなってしまうのかわからない不安定さに耐えるのは結構難しいし予測もできないので、「仮に自分はこのような人間である」という(仮定)を元に労働や生活や人付き合いをデザインしていくのが普通です。
 プロフィール帳に好きな音楽や映画、食べ物や場所なんかを列挙した時に、どこかで生じてくる自分のことであるのに自分のことだとは思えない、得体の知れない他人事感、欄を埋めれば埋めるほど自分の実態から遠ざかっていく浮遊感は、このような(仮定)した自分の設定に感じる他人事感に端を発しているものと思われます。

 とはいえ、物事を推し量っていくには(仮定)も必要で、(仮定)がないことには推論も成り立たず、推論がなければより「こうであろうと思われる自分の見解」に接近していくのも土台不可能な話になってしまいます。ですから、肝心なのは

自分を(仮定)した上で、同時に(仮定)への疑いを常に併存させる

態度になってきます。なんだか言っていることが複雑でわけがわからないかもしれませんが、これを今からうなぎを食べる人に当てはめて想定してみます。3パターンの人格を想定します。

(A)何も考えていない人
(B)(仮定)をしている人
(C)(仮定)をした上で、「本当にそうなのかな」という疑いの視点も同時に持っている人

(A) 何も考えていない人 が抱く見解の一例

「おいしい」
「楽しい」
「写真を撮ろう」
「イエーイ」
「👍」

(B) 「自分はうなぎが好物だ」という(仮定)をしている人 が抱く見解の一例

「これはいいうなぎだ」
「以前食べたうなぎよりも美味しい」
「関西より関東の焼き方の方がいい」
「うなぎは白焼きに限る」
「半可に食通ぶるよふな人々は、うなぎは白焼きに限るとなどといふが、小生はかならずしもそうは思わぬ」

(C) 「自分はうなぎが好物だ」という(仮定)をした上で、「本当にそうなのかな」という疑いの視点も同時に持っている人 が抱く見解の一例

「うなぎって、美味しいけど美味しいのが当たり前だからむやみにハードルが上がりかねない部分があって、意外と食べるタイミングが難しいけど、食べたら食べたで期待を裏切らない満足感が毎回あるな」
「もしかしたら、自分は肝吸いが飲みたいだけなのかもしれない」

 例えばですが、漫画『美味しんぼ』におけるグルメ対決とは、先行側が(B)「(仮定)をしている人」の態度で見解を示し、後攻側が(C)「(仮定)をした上で、疑いの視点も同時に持っている人 」の態度で見解を示し、(C)の態度の方がより鋭い見解を繰り出すことができるので(B)に勝つ、というこのワンパターンの果てしない繰り返しでしかありません(中盤以降は先行後攻が入れ替わるケースも見られます)。
 美味しんぼはジャンル的にグルメ漫画ということに一応なっていますが、実際にやっていることは「ものごとに対する見解のバトル」なのでこの場合のモデルケースとして非常にわかりやすいんじゃないかと思います。

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