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「評価」を気にし過ぎてしまうとき、一体なにが起こっているのか(後編)~「側」のやつ論~

今回の記事は前編後編にわけて

「人の目線や評価を過剰に気にしすぎて辛い」

という悩みにどう対処していくか、というテーマについて考えていきます。


・「側」のやつ

前編では主に

評価の内容よりも、「どこからどのような評価軸で評価をされるのかわからない状況に晒されている不安」から評価されることへの辛さが生じてきているという話をしました。また、このような辛さを回避するために、推し活や筋トレ等の

功労(がんばりの量):評価(認められの量)の一対一関係

を維持しやすい活動が流行っている、といった話もしました。
後編ではもっと根本的なところでどうにかできないか、という話をしていきたいと思います。根本的な対処方法があるのか、というと筆者はあるんじゃないかと考えています。それは

「側」のやつ


です。

なんでしょうか、これは。こんな言葉は別にありません。
"「側」のやつ”とは筆者が勝手に考えてそう呼んでいる心構えのことです。もっとオシャレな言い方もできるかもしれませんが、「側」のやつが必要な場面ではオシャレなことを考えていられるほどの精神的な余裕がないことが多く、できる限り実質的な手触りの呼称にした方が好都合なので、不恰好ですがこのように呼んでいます。この記事を読んでおられる方も、この心構えは日本刀のようにシャープなスタンスではなく、咄嗟に出してガッと殴れるサバイバル棍棒なのだとイメージしていただけるといいのかな、と思います。

・評価する側とされる側

「側」のやつとは、いったいなんでしょうか。
「評価をされるつらさ」について前半の記事では

A:どのような評価が与えられるのか(成績)
B:どう言った価値観で評価をされるのか(ものさしの種類)

という二点から考えたのですが、実はこれらよりもっと根本的な部分につらさの中心軸となるものを生じさせる構造があるんじゃないかと筆者は考えます。それは、

C:評価される側とする側(構造)

という関係です。当たり前ですが、人の目線や評価が気になりすぎてしまうとき、そうなっている人は「自分は評価をされる対象である」という発想に(自然理に)染まっているはずです。

何年か前に憎めないが厄介な映画オタク、ムース(演:ジョン・トラボルタ)が大好きなハリウッド俳優をストーキングし殺人してしまう映画『ファナティック』


を観たときに、筆者としてはクライマックスの殺人をやっている場面よりも、ムースが苦労して潜入した華やかな映画業界パーティーからつまみ出されてしまうシーンの方がよっぽど印象に残りました。なんでかというと、殺人というのは全体の流れの結末であって、殺人をしてしまう根本原因はパーティーからのつまみ出されにあるからです。

なんでパーティーからつまみ出されたのか。

これには、そもそもムースが招待されていないから、などの細かい理由もありますが、根本的な問題としてあるのは「パーティーの場にふさわしい価値を本人が発していなかったから」です。もっと根本的な部分を言ったら「ふさわしい価値を提供しなければパーティーの場に存在し続けることは許されないという基本ルールを知らなかったから」ということになるでしょうか。
パーティーとなると個々人に要求されるがんばりの度合いが大きい(なぜならばパーティーとはムードの総体でしかないので、がんばりを放棄したら場自体が雲散霧消してしまうから)ですが、この世はパーティーじゃないシーンもある程度パーティーといった側面があります。つまり、その場に存在するだけのふさわしい価値がなければ存在することを許されない、というルールが基本的にはある。

ガリガリの人がゴールドジムに通ってしまうと、正規料金を支払っていてもなんだか気まずいのはこれが原因です。つまり、ガリガリな人がいるせいでゴールドジム全体の価値(ここに通えばこんなに仕上がった肉体になれるというドリーム感)が棄損されている、という見方もあるいはできてしまうからです。それは、言葉にしなくても感じ取ってしまう性質ものとして集団を構成する原理の中に常に漂っている。是非はともかく、集団の秩序としてそういう前提があります。
ゴールドジムでしたら評価基準が筋肉の量という極めて単純明快なものなので、ガリガリの人物も気まずくありつつ、そこまで辛くはならないと思いわれます。しかし、多くの場はそこまでストイックな主目標で満たされているわけではない(「功労:評価の一対一関係」が成立していない)ので、「どの理由によって自分は存在を許容されていないのか」という目的の不明な苦しみに晒される羽目になるのです。

学校に馴染めない人の苦しみはここに起因しているものと思われます。つまり、学校のクラスのように、主目的と副次的な取り組みが並走しつつ構成員は定まっている空間では「なにを価値とするか」という価値づけのゲームによって与えられる評価(価値づけそのものを権力とする集団統治原理)が、ある一つの基準に定まった評価(学力、スポーツ、趣味など)基準のアンチテーゼとして機能することが度々あり、そうなった状況下では「定まった評価で測られる強い価値」が最も非俗なものと価値づけられる恐怖(ガリ勉、サッカーバカ、オタク等)に晒されるからです。

・「側」をやっていく

こういった混迷の苦しみを解決する発想が筆者が冒頭から申し上げている"「側」のやつ”ということになります。すごくシンプルに言えば、

「価値づけにまつわるフクザツな問題で辛くなった場合は、こちらが価値づけをやりにいけばいい」

ということになります。これが「側」をやっていく発想です。
ここでものすごく重要なのは、「側」としてやりにいく(見出していく)価値が、自分自身の人生の体系に基づいた「マジ」の価値じゃないとうまく機能しないという点です。

なんでなのかというと、この世のかなり多くの価値は「他の人が価値があると思っているもの」「人気があるもの」「偉い人に評価されているもの」が大半であって、評価に対する評価の内実はスカです。
もちろん人気があるものは鍛え上げられた実力に根底を支えられているので質的な意味で充実していることが多いです。いいものはいい、という前提はもちろんそうなんですが、評価が評価を生む領域に入ってくると、そこでは誰かの実感に根ざしていない「虚構の評価」が上乗せをされてしまいます。

人間のすごいというか狂っている部分は、この「虚構の評価」に対しても実質的な価値を認識できる点ですが、そうなったときに「⑴評価によって上乗せされた部分に感じるよさ」と「⑵それ自体に感じるよさ」は全く別の次元にある価値であるということをなぜか忘れてしまうのです。
SNSの普及によってこの二つを混同しながら自分自身の価値付けにも当てはめてしまう状況が爆増してしまい、結果どこからどこまでなんなのかわからないせいで投資アカウントや美容アカウント的な感覚が生じてくると言いますか。

つまり、「⑵それ自体に感じるよさ」がゼロである状況「⑴評価によって上乗せされた部分に感じるよさ」がゼロである状況と誤認してしまい死にたくなってしまう、といった「実際そうでもないけどねガッカリ」が現代によくあるつらさの内実だと筆者は考えます。

・実際そうでもないけどねガッカリ

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