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「評価」を気にし過ぎてしまうとき、一体なにが起こっているのか(前編)

最近、

「人の目線や評価を過剰に気にしすぎて辛い」

ということで悩んでいる人の話を聞いて、すこしわかったことがありますので、今回はそれついてお話ししていきたいと思います。

・「評価」を気にし過ぎてしまうとき、一体なにが起こっているのか

どこかの誰かに突然「評価をされてしまうかもしれない可能性」について漠然と悩んでいる人(現代ではほとんどの人がこれに該当すると思うので、筆者も他人事ではありません)は「自分が晒されるかもしれない評価軸」とはどういったものなのか、イメージができていないことが多いんじゃないかと思います。つまり、評価を気にしている状態にある人は、評価の内容というより「突然評価されかねない理不尽」に対してより強い不安を抱いていると言いますか。

たとえばオリンピック競技種目のアスリートをやっている方は「どうやったらもっといい結果を出せるのか」「期待に応えるにはどうすればいいのか」という悩み方はおおいにすると思うのですが、やっている競技種目の結果が「評価をされてしまう可能性」について悩むことはまずないでしょう。(あったらそもそも選手にはなれない)
熱心にアスリートをやっている人は、よりいっそう評価の視線に晒されて厳しい選別を受ける場にいたいと考える、いわば評価ジャンキー的な精神性をやれている人が多いはずです。

なぜアスリートをやっている人は「評価をされる状況」そのものをつらく感じないのでしょうか。

 ・功労:評価の一対一関係

それは、自分にとって集中すべき取り組みと、またその結果与えられる評価の種類が限定されていて、注いだ労力と得られる評価の関係が安定しているからです。ここではそういった状況を「功労:評価の一対一関係が築けている状態」と呼称することにします。
ポケモンマスターを目指すサトシであれば、「がんばり:持っているジムバッジの数」で功労:評価の一対一関係が築けていますし(※)、極限修行を行なっている団体であれば「修行の辛さ:それに耐えた自分」という形で安定した功労:評価の一対一関係がそこに生じます。苦行がときに人の心を捉えるのはこれが理由だと思います。

(※実際にがんばっているのは、サトシではなくポケモンの側だと筆者は思っています)

【こぼれMEMO】漠然と「自分はなにかをがんばれていない(気がする)」ということで悩んで落ち込んでいる状態にある人は、この「功労:評価の一対一関係」が極端にデフォルメされ誇張された形で描かれたものを見ると癒されて元気が出る可能性があるので『巨人の星』『ガラスの仮面』『魁!!男塾』『アラベスク』などのスポ根ものを読むといいかもしれません。

なぜならば、そういうことをやっている間、人は「評価するもの、されるものが複雑に錯綜し、絡み合うことで生じる、ある文脈内の権力高配にまつわる人間の社会性が放つグロテスクな(不随意に暴力性や攻撃性が発露されかねない)側面」からは離れたところにいられるからです。
アスリートをやっている方でも、競技の結果でない部分に評価が襲いかかる可能性は常にあります。例えば外見やスポンサー企業のエシカル度について、知らない人から理不尽になにか言われる可能性からは逃れられませんが、中心的なところには競技というルール化され制度自体からは裏切られる余地が少ない評価軸があるという部分が救いになる可能性があるので、あるいは茫漠と不定形な理不尽のビッグウェーブそのものに翻弄されている人よりはマシな部分があるのかもしれません。

・予測がつかない評価への不安

筆者自身が「評価への不安」を感じた状況について考えてみると、このような不安は「低い評価」が予想されるときよりも、「どのような評価軸で評価をされるのか予測がつかない」ときに起きやすい傾向があるように感じます。例えば、美術大学の授業でゴミみたいな絵を描いてしまった人がいるとして、その人が自分の内部で「この絵はゴミみたいな評価をされるだろう」という正確な評価軸を持っているのであれば「評価されること自体」にショックや恐怖は感じません。あるいはごみみたいな絵なのに「最高の傑作が完成した」と思い込み、不正確な評価軸による予測をしている人も、それはそれで評価自体への恐れは生じてこないでしょう。

問題は「一体どういう評価軸で判断されるのか予測できない」場合です。こうなっているとき、与えられた評価がいいものであれ悪いものであれ、それらは「不随意に晒された恐ろしいもの」として混乱のうちに記憶され、記憶というより痛みとして、未消化のまま恐怖や不快感を喚起する得体の知れないものに変貌するかもしれません。
外見について悩んでいるのは外見が良くないという評価を与えられる人、というイメージが一般的にあるかもしれませんが、実際にはすごく外見がいい(とされる)人の中にも外見のことで常に悩んでいる人が多いように筆者は感じます。なぜなのかというと、ある恣意的な評価基準で「いい」とされるにしろ、「わるい」とされるにしろ、標準的から大きく乖離をしているせいで「突然得体の知れない評価に晒される不条理」に直面する状況が増えてしまうからです。
「美人」「イケメン」「スタイルがいい」など、褒め言葉でも急に他人の外見について言及をしない方がいいのはこれが理由です(たとえば、明らかに鍛え上げた肉体を誇示する目的の服装をしている人は、ある程度評価をされる覚悟ができている可能性が高いので場合によっては言及しても大丈夫かもしれませんが、この場合もどこからが本人の意図でどこからが見た人の主観的な解釈かわからないという懸念があります)。

また、会社で外見の話をしない方がいいのも、会社というのは本来業績や仕事の内容が評価されるべき場所であって、ここに容姿という評価軸が入り込んでくると「功労:評価」の一対一関係が崩れて、業務に関係ない変なストレスが(さらには、もっと別の評価軸が入り込むのではないか、というメタ的なストレスまで)生じるからです。

たとえばですが、パリコレをやっているファッションウィークの最中に渾身のおしゃれをしてきた人がファッションセンスを評価されても、ただ楽しいばかりでなんのストレスもないと思うのですが、書道教室で「書道セットを入れる鞄のオシャレさ」が評価の対象になる文脈が生じてきたら、どうなるでしょうか。なんだかいやですし、不快です。教室ぜんたいがへんにピリついた空気をまとって不穏当な気配を放つものと化します。明日は靴下の柄をバカにされるのかもしれません。かわいければバカにされるのか、かわいくなければバカにされるのか、どういったノリがその場で生成されていくのかについても見当がつきません。そうなってくると、場の実態として書道の実力よりも「何を実力と定める物差しとするか、定義する政治的能力」が幅を効かせるようになって殺伐としたものを纏い、権力闘争を主旨とするストレスフルな環境がそこに展開されることでしょう。

書道教室では書道のうまさだけを評価してほしい。でも実際には書道セットをブランドバッグで持ってくるお金持ちの家の子供が評価・優遇をされるのかもしれません。このようなストレスを減らすためには、主目的とは関係ない部分でやたら評価をしてくる場所からはできる限り乖離しておいたやはり方がいいでしょう。
なぜならば、どういった評価をされる傾向があるのか文脈を理解できていればいるほど、それは自明のものとなり、評価の内容に苦しまなくて済むからです。

・がんばり屋さんじゃないと(もしくはがんばってる感じをだせるなにか、を発見できないと)わりとキツい世の中

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