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知っているつもり


ひとは何かを見て脳でそれを処理し、すべてとはいかずとも知れた気でいる。そしてそれをすべて知ったと錯覚する。


自分に自信がなく無知で世を知らなさすぎると思っている人はこの本を読んだ方がいい。
私自身、世の中のことを知らぬ存ぜぬで27年間生きてしまっているから、無知であることへの恐怖心や不安感などを抱いている。しかしこの本を読むと案外、私だけが無知なのでは無いことを教えてくれる。
ひとは見たものを脳で判断し物事を知ったと思い込む。
思い込むことが悪い訳では無い。
知ったという事実はとても大切なことであるが、それに対してすべてを知ったと思うのは違うという話になってくる。
得意分野のことであればすらすらと話せることも、得意分野ではないが好きな分野のことになると得意分野よりかは上手く話すことが出来ないように、好きな分野でも知っているつもりになってしまっている。得意分野でも実は知らないことがあるにも関わらず、すべてを知ったつもりになってしまっている。
それが良いか悪いかではなく、ひとの脳の処理というのはその程度のものなのだと認識をすることに意味があると私は感じた。
私は全てにおいて無知なので、これを見てそうなのかと頷きどこか安堵した気持ちになった。
だが、得意分野があるひとにとって実は知らないことがあると思わない人はどうだろうか。

きっとこう思うだろう。
「そんなことはない。私は得意分野に特化しているのだから知らないことは無い。」
人というのは意地を張る生物である。もちろん例外は多くある。だが、自信のあるものに対して知らないという言葉を使うのは些か抵抗があるに違いない。
ここまでは知っているが他は分からない。そう言える人もいるだろう。だが、それすらも意地がみえかくれしているのだ。
ここまでは知っている、そう断言しているのだ。
だが、私はそれについてそう断言出来るほど得意分野があるという事実がとても羨ましく思う。だからこそ、私はこういった弄れた感覚を抱いてしまうのだろう。

この本の感想をただただ書きたいわけではない。私が思うままに言葉にしている。不快にさせてしまうひともいるだろう。しかし、それはあくまで、私個人の意見でありそう感じとれてしまったのだ。
知識や記憶などといったひとの脳の容量はかなり少ない。イメージしやすいもので言えば、いま使っているスマートフォンやパソコンなど以下と言える。もちろん人によってはそれ以上も有り得るかもしれない。しかし大多数は脳が処理しきれる容量というのはかなり少ないものだと言われている。
これはあくまでこの本の中で書かれたことであるから、真に受け過ぎてしまってはいけない。だが、頭の片隅に入れておくだけで脳が処理しきれる容量は少ないのだから細かい事を覚えられずとも仕方ないと諦めが少しはつけるのではないだろうか。

私自身は知らぬ事がほとんどなので、脳が処理しきれる容量は常にキャパオーバーとなってしまっている。
だが、それでも言葉を脳に残しておきたいと思うから、本を読み続けるのだろう。



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