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感謝は「する」もの?「出来る」もの?

「感謝」の有益性

「感謝する」ことによって得られる有益性を謳う話は多い。
・運が良くなる
・健康になる
・人間関係が良くなる
・気分が良くなる
・問題が解決する
・幸せになれる
・感謝が自分に返ってくる
・物事がうまくいく

などなど。
なぜだか、「こんなに有益性があるんだから感謝する方がいい」と言われているんじゃないかと天邪鬼的考え方がよぎる程だ。
実際、そんな打算的な気持ちもなくはなく、「感謝しよう」「感謝出来る人間になろう」と思っていた頃があった。
そして、当然ながら、期待するような大した変化もない人生が展開されたりもした。

「感謝」とはなにか?

「感謝」とは、「物事に対して有難いと思う気持ちや、その気持ちを伝えたり表したりすること」とある。
この世の中に起きていることに当たり前のことなどなく、すべては「有る事難し」なのだから、それを受け取っていることに対して「謝(礼)を感じる」ことが「感謝」なのだという。

例えば、普段は意識もしないが、空気があるから呼吸が出来ているし、その空気も地球の植物が二酸化炭素を酸素に変化させてくれるから得られるわけだし、空気も自分たちも植物もこの地球があるおかげで存在出来ているわけで。
「感謝することで有益性を得る」などと考える以前に、そもそも、存在(が可能になっていること)自体がすでに「有難い=感謝に値する出来事」なのだ。


「感謝」とは、自分の内側から「湧き出るもの」


そう考えると、「感謝」は「する」とか「出来る」という顕在意識の範囲のものというより、どこからともなく自分の内側から「湧き出る」もの、といったもののほうが自然な気がする。

感謝の気持ちが自分の中から自然に湧き出ることを感じ取れるようになって、はじめて、生活の中に良いものが現れるのかもしれない。
というか、その変化そのものが自分にとっての「益=良いもの」になりうるのではないだろうか。



蛇足。

年を取ったせいだろうか。
それとも、「介護」の二文字が身近に現れるようになったせいだろうか。

日常に起きた特別な出来事や、誰かからプレゼントされたものや、向けられた優しさ・思いやりに「感謝する」ことが多かった昔に比べて、身体のことや、日常の些細なことを有難いと思うようになった気がする。

朝、目が覚めることが有難い。
ベッドで寝がえりが打てることも有難い。
一人でトイレに行けることも有難い。
雨や寒さをしのげる暖かい部屋にいられることが有難い。
水道をひねれば水もお湯も出ることが有難い。
部屋で煮炊きできることが有難い。
仕事があることが有難い。
目が見えて耳が聞こえて、手足が動いて、仕事が出来ることが有難い。
楽しく話せる友人がいることが有難い。
普通なら知り合えない人と、Twitterで言葉を交わせる環境が有難い。
こうして思ったことをnoteに残せるのが有難い。

感謝の視点の先はミクロに、範囲はマクロに変わっていきそうだ。










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