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近未来の日本を想像する~暖かい寒さと孤独な繋がり~

よく近未来の日本を想像する時に「荒野で人々が集まり寄り添い合う姿」が浮かぶ。
寒い冬の果てない荒野。藍色の空と濃いオレンジの地平線。草もあまり生えず、道路の舗装もあちこちひび割れた所に、古いアパートが並んでいる。明かりが付く。賑わいの声が聞こえる。隣人に珍しいお酒を届けたら、そのまま緩い呑み会がスタートする。貧しさを分かち合い、虚しさを防いでいる人達……

上に書いた情景は、どこかにありそうで、なかなか無いのかもしれない。だけれど一部ではもう行われていて、これから増えていく、いや、増えて行かざるを得ないだろうと思っている。

最近「匿名性のある生身の交流」について考える。
先日、足を悪くしていたが、せっかくだし近場を「旅行」したい、という事で、近所の川越小江戸に行き、古民家をほぼそのまま利用したゲストハウスに止まった。和風の部屋の中心にちゃぶだいがあり、そこで他の旅行者やスタッフと語り合ったのだが、肩書やお互いの素性はたまに軽く出る程度で、その人が何を話し、どこに旅し、何が好きか、どんな考えで生きているか、等が延々と語られる。地位や性別等ももちろん関係無い。夜中まで80年代アングラバンドの話で大盛り上がりした旅人は、翌日の早朝にはチェックアウトして、次の目的地へ旅立って行った。

もしかしたら、「note」の場もそうかもしれない。ブログを読んで素晴らしい文章に出会っても、その人の細かい素性は分からないし、多分こんな文章を書かれるのだから素敵な人だろう、くらいの印象になる。それはそれでいいかも。

色々トラブルも付き物らしいが、SNSから良い繋がりが生まれる事も少なくない。実際に顔を合わせてみたりして、新しいビジネスや活動に繋がった人もいるだろう。

作家の辺見庸氏は「今の若者の寄る辺無さ」を高く評価していた。知識や理屈、経験で変に武装して、いざとなるとそれらを「言い訳」として並べ、迎合したり裏切って行く人をたくさん見て来たのかもしれない。それよりは、目的地も現在地も実は分からないまま、とぼとぼと歩く人々に希望を見出したのかもしれない。

しばらく前に、大学生達がホロコーストについて調べた展示を見に行った。ホロコーストを生きた被害者から加害者まで、幅広い人生が分かりやすく調べられていた一方、様々な人権や歴史、ジェンダー、日本の歴史問題まで、広く深く知る事ができる重厚な面も持った展示だった。何となくこれは「元々知らなかった問題について0から調べ、高い認識に到達した」ものに感じた。寄る辺無き人々が精一杯世界を、歴史を、未来を感じた姿。

対面している人の具体的な事を知らないから、逆に深い考えや好きな物に触れられる事がある。寄る辺無いからこそ、些細なきっかけに一気に世界の深層に迫る事がある。何かが欠けているから他の事も駄目なのではなく、その欠けているところを入り口にして一気に世界がひっくり返る。

妄想かもしれないけれど、新しい時代が始まっているのを感じる。

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