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「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」感想~「気持ち良い~!!!」と「距離感」の狭間で~

うわ~~~!!! 気持ちいい~!!! ワクワクする~!!

本展覧会を見て最初に思ったことである。
(本感想は具体的な展示内容の説明を含むので、人によっては「ネタバレ」と受け取られる可能性あり)

整った空間の中で、人間に眼差される客体としての絵を行儀よく眺めて、後でアレコレ批評する必要も無い。まさに生活の中で「気持ちいい」「分かる~!」と思えるものが残骸にされ、グチャリと一緒にされた展示が前半を占める。これは絶対気持ちいい。

鉄筋に囲まれた展示空間。それは街をワクワクしながら歩いてると出くわす光景。
都市の網目を行きかうネズミ。深夜に酔っぱらって繁華街を歩くと出くわす存在かもしれない。
カラスはどこにでも出没する。部屋から出ずとも声や姿は耳や目に入ってくる。普遍的な生物と戯れた展示。
性欲を発電に使うため、怪しげに赤く光るコード達。ふむ。性欲は困るくらい充填可能だ。夜を行きかう人の一定数も同じ状態だろう。分からんけど。
洗濯ばさみにつままれた酒の空き缶。面白い組み合わせだが、快楽に取り残され、二日酔いだけ引き受けた朝や昼を、どこか思い出す。
ぼろい公衆電話で受話器を取り出すと、「あなたの口座にお金を振り込みます」と「逆詐欺」を仕掛ける音声。こんな「アホな行為」はした事無いが、どこか懐かしいような、むず痒いやり取りが為される。こんな事してたら怒られ電話切られて当然だと思うが、どこかで成功を願ってしまう。ほら、おばあちゃんおじいちゃん、もう少し辛抱して受け入れたら、誰もにとって嬉しい結果になりますよ、と。

生活の快楽や印象が流れ込んでくる展示の中、私自身も、他の来場者も、案内員も、誰もが展示を司る主体にして、展示される客体になる。美術史に詳しい訳では無いが、日本の美術館でここまでダイレクトに臨場感を表せた展示も珍しいのでは無いか。

「こちらの空間は、一分間ゴミの気持ちを体験できるインスタレーション作品となっております」

笑顔で説明される案内員の方がなんだかシュールだ。真っ黒い空間の中で、不安定な地面をゴミになり歩き続ける。「自分はゴミ、ゴミだからごちゃごちゃ考えなくていい。歩き続けよう」と決意し、最高のマインドフルネスになった。

しかし、展覧会の中盤に差し掛かる時、気持ちいい臨場感は消え、戸惑いが生まれていた。

Chim↑Pomが取り上げたテーマと作品の距離感、そして私自身と、テーマとの距離感。この事を考えない訳にはいかなくなった。

原爆、原発、震災、国境……テーマが「重たく」なる程、テーマの直接の当事者では無い人達にとって、距離感を縮めるのが難しくなる。Chim↑Pomはどこまでも距離に敏感で、その距離をこそ、表現しようとする。しかしそれは無神経さをあぶり出す行為となるため、当事者からの「土足で痛みのある領域に入られた」という反発と、小賢い非当事者の道徳を装った批判を受ける事になる。

Chim↑Pomは反発や批判から逃げない。批判を丁寧に記録し、当事者と対話を積み重ね、距離感を縮めるための「境界」となり得る作品を創造する。例えば世界中からの折り鶴の山。山というよりむき出しの集積。それだけで迫力のあるものだが、集積にぽっかりと空いたトンネルを我々はくぐる事ができる。しかも、エリィ氏が、折り鶴に書かれたメッセージ(そこには誠実なものも無神経なものもある)を読み上げ、折り紙を広げて元に戻す映像があり、我々が、それらの折り紙をまた折り直す体験を通して、作品は誰もを巻き込み循環する可能性へと開かれる。

また、震災直後に、原発が爆発した現場がよく見える展望台に行き、日の丸……と思いきや赤い放射能マークを描いた旗を掲げる映像作品。無人の舗装路を歩いていく場面から始まるため、我々もまた、原発に近づく一歩一歩を追体験できる。

米国とメキシコの国境沿いの「壁」付近に「跡」を残す作品も、現地の人々との共同作業が映像として展示され、国境沿いの「家」に、実際に我々が入る事ができる構成となっている。

しかし、当事者と対話を重ね創造しても、生まれるのは「境界」までで、それは「重たいテーマについて葛藤できたぞ!」という達成感を得るためのアリバイになって終わるのでは無いか、という懸念は残る。

「被爆地自体が、被爆地以外の人々との間に壁を作ってしまった事実はある」という意見が、Chim↑Pomが原爆ドーム上に、飛行機雲で「ピカッ」と描いた騒動を受けての反応の一つとして記録されていたが、「壁」をとにかく取っ払い、ズケズケ交流していく事が正解では無いのは確かだ。(「壁」の絶対化も正解ではありえないのだが)

Chim↑Pomが空けた風穴に喝采を浴びせ、難しい対話や葛藤は当事者達に押し付け、出来上がった「境界」に少し参加する事で「難しいテーマとの距離感を縮められた!そんな難しい事考えなくてもいいんだ!」と安心して済ます事。暴力的に非当事者から当事者へ浸食する境界にならない事を願っている。

そんなこんなで、展覧会中盤から葛藤を抱えながら見ていた私だが(次の予定に間に合わなくなるのが確定し焦っていたのも正直あります。スイマセン)一つ、距離感を揺さぶる作品があった事は書いておきたい。

東京の都会を一望できるスペース、両サイドには「空白」が展示されている。これは原発事故で帰宅困難区域となった箇所で展覧会が行われる事になったが、見に行く事ができないため、どのような展覧会なのか想像するしか無い、というものである。

私としては、「空白」の先にある現実の都会を眺めた時に、揺さぶられるものがあった。都会の地下鉄を使い、この展覧会に来た私。しかし、都会で大きな地震が来ないという保証は無い。寧ろ、様々なニュースで、その可能性について言及されている。絶対にあって欲しく無い。目の前の景色が失われるかもしれないという可能性。そう、私が絶対当事者にならない、なんて事は無いのだ。

(もちろん、現実に東北等の震災で被災されている方々の状況と、現状では被災していない自らを安易に同一化せず、両者の違い、「境界」を認識していく事も重要である)

上で「暴力的に非当事者から当事者へ浸食する境界にならない事を願っている」と書いたが、Chim↑Pomに限っては、そういう事はしないだろうという信頼もある。
それは作品や活動に、全ての人を相互介入に巻き込もうとする強い意志を感じるからだ。寧ろ問われるのは私達かもしれない。

非当事者が当事者へ不健全な介入をする時、大概、非当事者は自らの存在が何なのか問う事をせずに、一方的に当事者がどのような存在か眼差し、探求しようとする。マイノリティがマジョリティより絶えずアイデンティティを問われやすくなってしまう構造がある。

しかしChim↑Pomは、展覧会を見た私に対し「あなたがここに来るまで通って来た都会も、地震と無関係とは言えないからね」という事実を示した事に加え、展覧会の前半で私を気持ち良くさせる事で、展覧会と私の間に相互介入を実現した。
台湾の美術館で行ったという、美術館の敷地に道を開通させ、あらゆる事が可能な「解放区」にした試みも、当たり前に通る空間や道の意味を問い直させ、普段、道を一方的に歩く私では無く、道に「歩かされる私」という自己を意識させられる事となった。(あくまで私の解釈だが)

展覧会前半での相互介入体験があったからこそ、中盤からの原爆、原発等のテーマについて、安易な相互介入は難しいな、と実感できたのはある。
展示対象に介入されるために、私の中にスペースを作っておいたのに、前半と違って、なかなか入って来ないのだ。介入してくれないのだ。そうなると、私の中の空きスペースを抱えながら、展示を見続ける事になる。

日本社会は、世界の中でも、空きスペースがある事を不安にさせやすい社会かもしれない。街の路上は冷め、「異物」を排除し、見た目も中身も予定もビシッと決まりきった「閉じた人達」が、速足で町を行き交う。デモなんて見た時には、一瞬で目を逸らし、揺さぶられた感情や驚きには蓋をし、更に速足で通り過ぎようとする。
(日本と「国際社会」にとっての「絶対不変の敵」が決まっている事象に関するデモなら、多少なりとも「寛容」になるのかもしれないが、その「寛容」は多分、デモ参加者の気持ちとは違うものである)

空間にも行き交う人々にも空きスペースが少ない社会は、空きスペース無しで理解しようとすると、要領が足りなくなる複雑な問題に対し、無視して隔離するか、分かったような顔をして、「いや、分かりますよ。おつらいですよね」とだけ言い、僅かばかりの援助で逃げてしまう。複雑な問題の渦中の人達は失望し、「壁」を作る事で自らを守ろうとする。こうして更なる葛藤を後世に残し、「壁」は更に高くなる。

私の中に空きスペースがあると、時に冷たい風が沁み、自らの不完全性を恥じたりして、不安に襲われる事もある。だが逆に、スペースの無い全知全能の完璧な存在は全てを司っているために、自らを知覚し得ない。空きスペースからスタートして、私自身の輪郭をなぞる事で、自身を愛し、自信も持てるようになる。

私は展示を見ながら「Chim↑Pomも六本木のど真ん中で展示できるぐらい世の中に評価されたんだなあ」とつい思ってしまったが、何もかも整い管理された六本木の美術館で、少々展示物達も窮屈そうにしている気がした。(台湾での方が伸び伸びしていたんじゃないか、と思ったり)

ならば、「評価されたんだなあ」と見上げる事で、Chim↑Pomと私を分けてしまうのでは無く、私自身のスペースでChim↑Pomぽいものを吸収し、それでどこかしらに空きスペースを創造する。そして空きスペースに多様な人が思いをぶつけ、更に私自身との間にも相互介入が生じる。

そういった事を繰り返せば、回りまわってChim↑Pomの活動に掠りぐらいはするかもしれない。

「いや~自分もChim↑Pomさんの活動に関わったなんて出世したな~!!! 気持ちいい~~!」










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