(人生という)旅の恥はかき捨て~心配性と向かい合うための哲学~
私は時折極端な心配性に見舞われる。それなりに心が疲れる。しかし無理に心配性を抑えるのは難しい。
心配性の人は心配性の人なりに、凄く論理的に行動しているのではないか。
出掛けた直後に部屋の暖房を消したか心配になる人がいる。超明確にリモコンを持ったか、切るスイッチを押したか、リモコンを置いたか、どれかの記憶が残っていないと気が済まなくなってしまう。日常の動作なんて無意識にやるものだから、2,3細かい動作が記憶に残ってないのは自然なのだろうが、心配性の人からしたら、それは非論理的で許されないのだ。そして自分で自分を苦しめる。
しかしそれでも思う。
人間の「完全/不完全」の基準では測れない世界がまずある。そしてその中に不完全な国家、社会、会社、家族、その他諸々が、それぞれ異なる文化や目的等を持ちながら、無数に共存(衝突もしょっちゅうだが)し合っている。不完全の中に生まれ落ちた我々が完全な訳が無い。
不完全な何かに対して不完全な人間なりにコミットして、ある程度のところで切り上げるしか無いのではないか。仕事も生活も何もかも、完全を執拗に求めようとすると人間が病むようにできているのだ。波に晒され砂の城が崩れていくように、人間のあらゆる営みは不完全に晒され、いつかは崩れる。
そして社会も世界から切り離されて存在している訳でなく、常に共に在る。だから一時期の失敗が世界に投げられ、世界から投げ返されたものを受け取った時に、成功ということもあるのだ。繰り返すが人間の「完全/不完全」を越えているのだ。
心配性の話をしてたらやけに話が大きくなってしまった。心配性の人にとって心配は大きな存在に肥大化するからしょうがない。
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