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涼しい夜にコオロギの鳴き声が降る

今日は一日の大半が雨だった。
怪我した足のリハビリのために、必死の決意でクリニックに出かけ、その帰りに雨が止んだ。松葉杖も徐々に慣れ、以前より少ない力で、よりスムーズに前へ進めるようになった。階段の下りはいまだに怖いが。

夕方は建物の白い壁も、ほんのり夕日に染まっていた気がする。

そして夜。夕飯。スマホやパソコンでのインプット、アウトプット。読書。なるほど充実しているが、読書はともかくとしても、電子機器での活動はブツ切りの情報をあちこちから接種する事になりがちで、前のめりになった心身がそのうち疲労を感じるようになる。潤いを無くし、知識も染みていかない感覚。

寝転がり、アンビエントを5~10分聴く。ホラーゲームのBGMだが、恐怖では無く、暗い静寂の雰囲気に、心身も落ち着いていく。前のめりになり乾いた精神が、再び身体に溶け込み、潤いを取り戻していくようだ。これが無いとインプットもアウトプットも良くならない。

Silent Hill Ambient | Relaxing Music (3 Hour Ambient) - YouTube

しかしである。アンビエントを聴き終えた後、コオロギの鳴き声が聞こえ、更に開けた窓から入って来る夜の風を受けながら、考えた。

「これこそ、アンビエントなんじゃないか」

不思議なものである。人間の頭脳と感性を練り上げ、独自の工業生産ラインのごとく集団創作システムで作られる楽曲演奏を聴くのは普通に分かる。しかし風や雨の音等、自然音に限りなく近づけたBGMをわざわざ見つけ出して来てリラックスするのは不思議である。

自ら「自然音でリラックスする!」と決意して行動に移さねばならないほど、人間は身の回りの自然や、そこから生まれ出る感性から離されてしまったのか。

怪我で安静にするのが中心の中、どうしてもスマホやパソコンをいじる時間が多くなり、考えた事だ。そろそろ心身と電子機器のバランスを、安静の中でも上手く操縦できてきている気がする。

それにしてもスマホは凄い。良い意味でも悪い意味でも「情報と実感の統一」を成し遂げたからだ。

一昔前なら、理屈や情報ばかりあって経験や実感が足りない話や人物は評価されなかった。電子機器への依存も「ゲーム依存」等、深刻ながらも限られた範囲だったと思う。

しかしスマホは、周囲の環境を凌駕する刺激物を常時持っているようなもので、ほとんど全員の手元にある。しかも短時間に大量の情報を接種したり、送り合ったりする事が可能なのだ。大量の情報が直接脳を突っつくという実感にして経験。

功績が何かよく分からない人達が複数登場して、あらゆる分野でドヤ顔解説をして(真偽はあまり問われずに)メディア等でもてはやされてるのも、メディアの発信者も受け手も、存在自体がスマホ化しているからかもしれない。

しかし私は知っている。コオロギの鳴き声が降る森を越えて、住宅街も超えた先に、オレンジの明かりが等間隔に続く高速道路があることを。明かりは窓からも見える。そして大雑把にだが、高速道路を行けばどこに何があって、誰に会えるか知っている。

安静にしている時はコオロギの鳴き声に包まれて、いつか怪我が治った時を想像し、心をオレンジの明かりへ飛ばしていく。久しぶりの再会や新たなる出会い。そういった人達のアカウントを見ている時は「自分も自分らしく生きるか」と思え、脳への刺激もほどほどにできるのだ。

鮮度の落ちた刺激への依存から、懐かしさを抱いて新鮮さへと歩く道へ。


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