国敗れて山河あり 川のほとりでバーベキュー

日本がどうなったにしろ 日本にいる人たちは呼吸し続けるでしょう。

とりあえずは。

国家としての日本をこれからどうしていくか。

災害、疫病、有事に備えられる機動性のある国家組織作り。少子高齢化への対策。ITだかAIだかロボットだかバイオテクノロジーだか、もしや更にその先があるのか分かりませんが、これからの時代にマッチした産業構造への転換。上下水道、道路等、老朽化しているインフラの、競争原理に依存し過ぎない形での更新。食料自給率の改善。貧困、格差の改善。ジェンダー平等、人種平等、多様性の推進等人権状況の発展。

まだ他にもあるのでしょうが、今挙げたような課題は長期的に見れば全てに手を付け、少しずつでも成果を出さなければいけませんし、短期的に見ても複数の課題にすぐに対処しなければならないでしょう。そうでもしないと徐々に海に沈む船に、国家がなってしまいます。

しかしどうでしょうか。かなりの指導力と先見性を持ったカリスマ的指導者が、一定の犠牲を厭わず、時に強引な独裁的動員手法を用いていかなければ、もう手遅れではないでしょうか。

動員が嫌だと言っても、SNSでもニュースでもその他日常でも耳にする意見を聞く限りでは、人々が目覚めて皆で決めていく、という状況にはまだまだ時間がかかると思います。時間がかかっている間に手遅れになる可能性もあります。

カリスマ的指導者というのも、実行性を持つ人は実は現れにくい。政治的に実行力を持つ人がいてもなんだかんだで力を削がれていくし、政治以外の分野で一定以上の成功を収めた人が、マウンティングの材料として政治にチョイ噛みしている微妙な状況もある。そういう人たちはほぼ例外無く、徐々に権力に吸収されていきますしね。

実際にカリスマ的指導者が現れても、必ず現状を変えるには犠牲が必要になってしまう。「来るべき国難に打ち勝つために今のうちに犠牲を払ってでも国の改革を断行するのだ」という「スターリン的思考」を、国難の内容が具体的に何でいつ来るかも予測がつかないのにとるのも、なんか乗り気がしません。

では結局絶望するしかないのか。そういうわけでもない。

国がどうなっても、自分自身の持ってる生活上の繋がりは簡単には消えないし、そこから新たな共同性を生み出していく。日本は駄目になっても、その後で、日本にいる日本人と外国人はどうにかなるかもしれない。そう考えた方が前向きになれるし、身近なところから動いていける。いい変化にしろ悪い変化にしろ、国家プロジェクトのような劇的変化は、退屈だけどなんだかんだ大変な日常を過ごす我々一人一人には難しい。

しかし、あきらめず亀の歩みをした分、国家より長く、もしかしたら力強く大地を踏んでいけるかもしれない。

大地から飛ばされそうでも、誰かを支え、誰かに支えてもらおう。



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