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ごはんとおかず

 (これは、キリスト教マニアック、聖書マニアックな話です。知らないかたが読んでも、ちんぷんかんぷんである可能性が高いです。それでもよいと思うかただけ、どうぞお読みくださいませ。)

 昨年の今ごろ、ある町の教会に滞在したとき、その教会で、祈祷会がありました。ある日、読まれたのは、新約聖書マタイによる福音書の「5000人が5個のパンと2匹の魚で満腹した話」でした(これは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、4つの福音書すべてに載っている有名な話です。この話を「五千人の供食」あるいは「五千人の給食」などと言います。マタイだと14章13節以下)。ある神学生(牧師になる勉強中の学生)が、「そして、残ったパンの屑を集めると」というところに引っ掛かり「なぜパンと魚を配ったのに、集めるのはパンだけなんだ!」と言っていました。私は内心、ずいぶん重箱のすみをつつくような指摘だなあと思っていましたが、だいたい以下のようなことを思いました。

 私はギリシア語(新約聖書がもともと書かれている言語)ができるわけではありません。(英語もできませんけど。大学に受かったばかりのころはさすがによく英語ができたのでしょうけど、しょせん私の英語は受験英語に過ぎなかったかと思うばかりです。)以下はすべて日本語の話です。

 つまり、「パンと魚」というのは「ごはんとおかず」と言っているのではないか。「ごはん」という日本語は、狭い意味では「米の飯」のことですが、広い意味では「食事全般」を指す言葉です。「ごはんを食べる」と言ったら、狭い意味では「米の飯」を食べる、という意味でもありますが、広い意味では「食事をする」という意味になりますよね?

「人はパンだけで生きるものではない」(人はパンのみにて生くるにあらず)(マタイによる福音書4:4)という有名な言葉にしても「おかずは食べます」という意味ではないですよね。これは「人はごはんだけで生きるものではない」と言っています。それと同様、その神学生が引っ掛かった箇所も、「そして、残ったごはんの余りを集めると」という意味にとるとおかしくありません。パンも魚も、すべてあわせて「ごはん」ですから。

 同様に、「さかな」というのは「おかず」を意味します。これも日本語の話なのですが、おかずのことを「さかな」という言い方はします。「酒のさかな」と言ってもこれは「おつまみ」という意味で「おかず」という意味ではありませんが、とにかく、さかなと言っておかずを意味します。こういうふうにとらえてくると、「パンと魚」というのは「ごはんとおかず」という意味にとらえられてきます。つまり主食と副菜のことです。こう考えたら、けっこうすっきりする気がしたのですが、いかが思われますか。

 きょうの話はこれだけの話なのです。つまらなくてごめんなさいね。

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