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党派心

 ある人に、個人的に書いたものです。ごめんなさいね!

 しかも、いま、読み返してみたら、私、かなり極端なことを書いていますね!今の私なら、もっと違う角度から書くと思うのですが、このときは、このときの私の思いがあったのだと思って、そのまま、載せますね。

 

「党派心はいけません」とパウロ(やヤコブ)は手紙に書くのに、なぜパウロはペトロと党派心を起こして分裂するのか、という問いへの、2016年3月7日時点のお答え


 結論から申しますと、パウロも普通のただの人であって、言っていることとやっていることの食い違っている人はたくさんいますが、パウロもそういう人の一人であった、ということになりますが、もう少し詳しく書きますね。


 パウロは、その13通の手紙をよく読みますと、何度も、自分を過大評価してくれるな、と書いていることがわかります。つまり、パウロの手紙を、その文脈に即して読むと、そもそもパウロの手紙を文字通り(字句どおり)に読むべきではない、というメッセージが聖書そのものにこめられていることがわかります。パウロの手紙を必要以上に字句通りに読むことは、書いたパウロ本人の意向にも反することなのです。


 パウロも人です。人であるからにはどこか不完全です。完全であるのは神だけであって、どんな立派な人間でも、どこか不完全です。パウロが不完全な人間であることは、上に書いたとおり本人も認めている点ですが、たとえばパウロはその手紙の中で、しばしばひどい女性差別発言を何度もしています(女性は教会では黙っていろ、とか)。パウロって、そういう人間なのだと思います。だからといってわたしはパウロの書いたことが無意味だとは思いません。パウロは一途に福音をのべ伝えており、パウロの手紙が後世に残ったのは、よかったことだと思っています。


 聖書を書いたのはあくまで人であって、パウロに限らず、マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも、みんな不完全な人間である、と思って聖書を読むという視点は、重要なものではないか、と思っております。


 いつだったか、「これ(聖書)を守って生きることはできない」という趣旨のことをおっしゃっていたことを思い出しますが、わたしも、とうてい守れません。わたしも、神ではなくて人なので、極めて不完全な人間なので、とても清く正しくなど生きられません。わたしが、極めて不完全で、愚か者で、うそつきで、卑怯者であることは、よくご存知のことと思います。しかし、なぜか造り主なる神はわたしをこのように造られたのです。クリスチャンというのは、清く正しい人のことではないとわたしはとらえています。むしろ、弱く罪深い人間のことであると思っています。わたしは洗礼を受けるとき、「わたしは、立派な人間として生きることは不可能であると悟りました。今日からは、ダメ人間として生きてまいります」と思って洗礼を受けました。


 というわけで、神ではない人は、不完全なので、言うこととやっていることはしばしば食い違います。わたしの友人で、わたしの母教会で伝道師をしていたある先生の言葉を思い出します。その先生は父上も牧師なのですが、子供のころは、父上が、説教で言うことと、普段の言動が、はなはだしく不一致であることに、大きな矛盾を感じて大きくなったそうですが、大人になって思ったことは、そのような矛盾をかかえた姿こそが、信仰者の真の姿なのではないか、と思うようになった、と、あるときおっしゃっていたのが印象に残っています。(わたしも子供から、そう思われているかもしれません。)


 というわけで、まとまりのない文章になってしまいましたが、お読みくださり、ありがとうございました。

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