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何百人何千人

 あるとき、ある人と電話をいたしました。その人は、たくさんの人助けをしておられます。親子の縁の話になりました。その人は、親子の縁が壊滅的な例をたくさん見て来ておられました。子どもが死んでも親が葬式に来ない例をたくさん見て来たそうです。その人は言いました。「子どもが死んでも親が葬式に来ない人なんて、何百人も、何千人も見て来たぞ!」。すごい経験をなさっているかたです。しかし、この発言の具体的な数字(何百人、何千人)には、以下のような「数字のトリック」があったと考えられます。

 おそらく、「何百人」という言葉をその人が発したとき、その人の頭をよぎったのは「いや何百人どころじゃないな」という思いだったと思うのです。おそらく実際には「千何百人」というところだろうと思います。しかし、つぎの瞬間にその人の口をついて出た言葉は「何千人も」でした。この話を聞いた人は「あの人は子どもが死んでも親が葬式に来ないケースを『何千人も』見て来たのだ!」と言うでしょう。こうして数字というものは増えていくのです。

 別のとき、別のある人(牧師)と、ぎょうざを食べました。その人が5人前のぎょうざを焼いてくれました。でも、なぜか彼はその5人前のぎょうざを前にして「腹ぺこさんがこれから50人前のぎょうざを食べます!」と言っていました。何度も言うのです。5人前を「50人前」と言うのです。言い間違いです。私はついに言いました。「聖書に出て来る5,000人のパンの話も言い間違いではないですか」。彼も笑いながらうなずいていました。

 聖書に、イエスが5個のパンと2匹の魚をわけて配ったら、5,000人が満腹したという話が出て来るのです(新約聖書マルコによる福音書6章30節以下ほか)。「まさか」と思う奇跡物語ですが、これも、ほんとうは5個のパンを5人で食べた話だったのに、誰かが「50人」と言い間違えて、「それはすごい!」という話になり、さらに話が盛られて、聖書に載るころには5,000人になっていた…と想像することもできます。勝手な想像ですが、あり得る話です。

 モーセが海を割る話は有名だろうと思います。旧約聖書の出エジプト記14章1節以下。映画で有名らしいですね。葦の海(紅海)がまっぷたつにわかれてモーセ一行がそこを通るという、あり得ないような奇跡の物語です。ある本で読んだのは、あれは干潮のときにモーセ一行が通り、エジプト軍が通ろうとしたころには満潮で通れなかったという話に尾ひれがついたものであろうという話です。これも勝手な想像のひとつですが、まあそんなところではないかという気もします。

 そもそもモーセ一行がエジプトを出たときの人数は、出エジプト記12章37節によれば60万人いたので、これも盛られた数字だろうと思われます。発掘調査では、その時代にそれだけの人間が通過した形跡はないそうです。だからと言って出エジプトがなかったとは言えませんが、もっとずっと小規模だった可能性が大きいと思われます。

 そんなわけで、そのお電話から「こうして数は増えていくのだ」ということを実感した次第です。

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