見出し画像

上げられた人が来る

 「かしこより来たりて、生けるものと死ねる者とを裁きたまわん」。

 使徒信条の一部です。新約聖書のあちこちの箇所を見ても、主イエスが、すぐにもやってくることが、書かれています。たとえば「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます」(テサロニケ一4:16)。
 私も、再臨信仰を持つものとして、しかし、なぜそんなに再臨が熱心に語られているのか、私なりの感想を以下に述べたいと思います。ひとによっては、不遜な意見ととられるかもしれませんが、私は、そういうつもりではないことを、お断りしておきますね。

 旧約聖書の預言者、エリヤにかんする言及が、新約聖書には、すごく多いです。いま、新改訳2017の聖句検索で調べましたが、新約で29回、エリヤについて述べられています。それのすべてが、「エリヤが再びやってくる」という意味ではないものの、新約の時代では、「エリヤはやってくるぞ」という意識が、非常に強かったことがわかります。実際、マタイによる福音書では、はっきり洗礼者ヨハネをエリヤだと言っています(マタイ17:13。マルコの並行記事のほうが、ぼかしてあります)。これは、エリヤが、死なないで天に上げられたからではないかと考えられます。エリヤは、死なないで天に上げられたのです(列王記下2:11)。死なないで天に上げられた人は、また来ると信じられていたのではないか。そう思えてきます。

 ちょっと違うかもしれませんが、新約聖書における、エノクの位置も、少し似ています。ヘブライ11:5、ユダ14あたりに、エノクにかんする記述がありますが、創世記5:24を見ますと、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と書かれています。死んだのではないようにも取れます。じっさい、ヘブライ11:5は、エノクは死んだとは思っていないようです。

 イエスも、そうなのではないでしょうか。

 イエスはまさに、生きて天へ上った人物です。「死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り」と使徒信条でも言われています。だから、再び来ると思われているのではないか。というのが、私の予想です。そんなことは、もう誰かが言っているに違いありません。ちょっと考えたら、わかりそうなことです。しかし、これが言いにくいのは、「お前、再臨を信じていないのか?」と言われそうになるからです。実際、再臨を信じていないクリスチャンは、けっこういると思います(いっぽうで、かたく信じておられるクリスチャンもたくさんおられます)。しかし、ついきのうのツイートで、「#それ言い出したらおわりやで」というハッシュタグがあったので、そこに「もしかして、イエスさまって、永遠に来ないんじゃないの?」と書いたら、けっこう「いいね」がつきました。そう思っておいでのかたも、けっこういらっしゃるということではないかと思います。詩編90編に「千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」と書かれてありますが、それを踏まえているのかどうか、ペトロ二では、「一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません」と言っています(3:8-9)。あれだけ、エリヤの再臨について、くどいほど言っている新約聖書です。この時代に、「イエスが再び来る」というのは、かなり説得力を持っていた発想なのではないでしょうか。

 もちろん、私自身、イエスさまが再び来られる日を待ち望んでいます。しかし、それと、きょうの話題は別なのです。なぜ、そういう再臨信仰が生まれたのか、ということに対する、私の個人的な考えなのです。個人的な考えなのですから、わざわざ公けにしなくてもいいのかもしれませんが、ちょっと、信じていない人からしたら、気味が悪いくらい信じていますから、正直な思いを書きました。「イエス誕生物語はおとぎ話だ」というのと「クリスマスの喜び」が両立するようなものです。それにしても、「イエス復活はおとぎ話だ」とまで言う人は、さすがにいないんですね。私でさえ、いま、書きかけて、消したもの笑。そこはどんなリベラルなクリスチャンでも、ゆずれないところなのでしょう。ゆずってもいいのにね。

 本日は、このへんまでです。お読みくださり、ありがとうございました。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?