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考えないこと

 こんばんは。また極論です。よろしければお付き合いくださいませ。
 よく私は、でれすけはもっと神学を勉強したほうがよいと(おせっかいにも)言われます。また、神学に興味のある人に、仲間と思われることもしばしばです。そもそも25歳で受洗したときも、――私の母教会は、若者がしょっちゅう献身する教会だったみたいですので――私が(大学院博士課程に)進学します、と言うと、え?神学?という冗談を一度ならず言われたものです。
 しかし、洗礼を受けて19年、一度も神学を勉強したいと思ったことはありません。その心境をあえて言語化すると以下のようになるでしょう。
 私にとって、たとえば数学は考えるものです(もっとも、大学院脱落以来、そんな、真剣に考えるような数学はやらなくなっちゃいましたけど。堕ちたものです)。それにたいして、信仰とは、考えないこと、考えることをやめることです。少なくとも私にとってはそうです。これ以上、考えない!明日のことまで心配しない!っていうのが私の信仰ですので、まさか、その「信仰」で、勉強はしたくない、と、そういう気持ちです。(神学を学んで来られた先生がたの前で申し訳ない話ですが)
 ですから、どれだけ不勉強と言われようとも、私は神学を勉強しません。それは私の信仰が許さないことです。
 そもそも私は、礼拝の説教も理解できないことがしばしばです。私の頭が悪いのか、あるいは業界でしか通用しないことばかり語られているのか。しかし、私は構いません。礼拝の説教は、勉強ではありません。礼拝後にテストがあるわけじゃないですしね。理解できなくても神様の恵みがあることには変わりないのです。讃美歌の歌詞も、意味もよくわからず歌っていても、主の祈りを意味も考えずに祈っていても全然OKです。礼拝という儀式に身をゆだねているだけでよいです。私は今回のイースターは礼拝にも行かず家族そろって家で寝ていましたが、じゃあ行った人より神様の恵みが少ないかというと、そうではありません。それどころか、さまざまな事情――うちの場合は、めんどくさいから行きたくないっていう立派な事情――があって礼拝に集えない人のために祈られていましたよ。
 結論としては、私は神学を勉強しません。私にとって、信仰とは「考えないこと」だからです。
 以上です。お読みくださりありがとうございました。

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