社会的貢献

 (先日、似たような話を書きましたので、繰り返しになりましたら申し訳ございません。)

 私はいま、もろもろの事情で、単身で実家におり、両親と3人で暮らしています。両親は、先日、たまたまNHKの番組「生きていればきっと笑える時がくる~牧師・奥田知志」を見たようです(奥田さんが理事長を務めるNPO法人「抱樸」の特集ですが、「奥田知志」の名前が通っているので、NHKはそういう番組名にしたのでしょう)。両親はしきりに、奥田さんはすごい、伴子さんはもっとすごい、などと言っておりました。そして、奥田さんと私では比べものにならないと言っていました。私は抱樸のスローガンの「あんたもわしもおんなじいのち」を言いました。すると父は「それはそうだよ。でも、社会的貢献から言って、あんたと奥田さんは比べられない」と言いました。でも、それって「おんなじいのち」の精神ではないですよね。

 もちろん、私だって、自分が奥田さんと同じだと言ったら、かなりおこがましい感じがします。でも、「おんなじいのち」なのです。まさに父が言ったように、世間では、人を「社会的貢献」で見ます。たしかに奥田さんは社会的貢献が高い。私は親のすねをかじることしかできないダメ人間です。社会的貢献がほとんどありません。だから比べられないと父は言っているのですが、私は、いろいろな人を見て、自分自身も見て、ひとって社会的貢献でははかれないな、って思っているので、抱樸の「おんなじいのち」の精神には共感します。

 でも、たしかに、人の役に立てていると感じることができれば素直にうれしいです。やっぱり役に立つとうれしい。でも、だからといって、「役に立たない人は死ね」(なんかそんな記事を書いたこともありましたね)ということではありません。なんというか、ひとくちに「社会的貢献」と言っても、いろいろな物差しがあって、「社会的貢献」はひとくちには言えないです。「社会的」でなくても、いろいろな貢献がありますしね。私だって、ちょっと弱っている友人をひそかにメールで励ましていたりして、まったくひとの役に立っていないわけではない。でも世の多くの人は、奥田さんのほうが社会的貢献が高いと言うのでしょう。それはそうかもしれませんけど、それで、奥田さんのほうが私より価値のある人間だということにはならないと私は思っているのですが。「あんたもわしもおんなじいのち」っていう言葉は、そういう意味じゃないかと思っているのですが。

 聖書にも、イエスの「天の国」のたとえで、朝からぶどう園でまる一日働いた人も、午後5時から来て、1時間だけ働いた人も、等しく1デナリオンの賃金をもらえる話が出て来ます。私はなぜかこの話がわりと好きですが、これも、ひとの価値って、ぶどう園で何時間働いたか、っていう、「社会的貢献」の話ではない、という意味だと思っているのですけれども。

 これも前に書いた話で恐縮ですが「バカ」と「天才」はまったく同じものです。常人からかなり外れている人のことで、そのなかで、社会のニーズにあっている人を「天才」と呼び、社会のニーズにあわない人を「バカ」と呼んでいるだけだと思うのです。じっさい、私は、人生のなかで、この46年間、なにも変わっていないのに、周囲の評価は激変しました。小学校のころは、なにをやらせてもダメで、毎日、厳しく叱られました。中学からは成績がよくなり、とてもいい大学に行き、その大学でも私は優秀なほうで、勉強ができると先生からもほめられ、叱られません。30歳で就職してから、小学校時代の「なにをやらせてもダメな腹ぺこ」に戻ってしまいました。私は変わっていないのです。バカになったり天才になったりしているわけではないのです。周囲の評価が激変しただけです。

 だからこそ思いますが、私がもし数学者になれていて、「社会的貢献」の高い人物になっていて、たとえば抱樸のYouTubeチャンネルで、奥田さんと対等に対談などする身になっていれば(そうなっていた可能性はじゅうぶんにあるのですが)、私はこんなに実の親にまでバカにされずにすんだと言えます。だから社会的貢献ではひとははかれないと思います。やっぱり「あんたもわしもおんなじいのち」だと思います。

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