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「助けられることのほうが多い人」の特典

 いま、自宅をひとり離れて、遠い町の友人宅に居候しています。

 見るもの聞くもの新しく、学ぶことは多いし、実感することも多いし、感謝することも多いですが、きょうはそのうちのひとつ、新たな気づきをみなさんとシェアしたいです。

 おさらいになってすみませんが、私は、助ける20、助けられる80くらいの、助けられることのほうの多い人間です。「三つ子の魂百まで」という通り、昔からの傾向みたいです。いろいろな人に助けられて、どうにか生きている人間です。

 こういう人間である私は、本を読むときでも、いつのまにか、ごく自然に、「助けられる側」に感情移入して読んでいることに気づかされてきました。いくつか例をあげます。学生時代に河合隼雄の本を読んでいるとき、同じ本を、当時の教会の伝道師は河合隼雄の視点から読んでいるのにたいし、私は、河合隼雄にカウンセリングを受ける側の視点で読んでいる、という発見がありました。

 わりと最近、読んだ本である、奥田知志牧師の『いつか笑える日が来る』から、例を挙げます。まさかこの本はこっちに持ってきていないので、記憶だけで引用することをおゆるしください。この本に出てくるもうひとつの例(いつのまにか「助けられる側」に感情移入している話。蛤浜の亀山さんの話)は、すでにnoteに書いたので、もう書きませんが、ようするに私はこういう話に深く共感してしまうのです。「共感」という言葉でうまく読者のみなさんに伝わるかどうかはわかりませんが、正確には、私が幼少のころから漠然と違和感を持っていたことを、奥田先生は、まさに言葉で表現なさっているのです。

 あるとき、奥田先生が、炊き出しで、メガホンを持って、「みなさん、並んで~」と言っていました。あるホームレスの人が、勇気を奮って、大きな声でこう言いました。「奥田!あんた、いつからそんなに偉くなったんだ!あんたもわしも、おんなじいのちだろうが!」

 私は、いま、これを書きながら、涙ぐんでいます。もう完全に、私は、ホームレスさんのほうに感情移入しています。もちろん、私にこんなことを言う勇気はないので、おそらく炊き出しでその人の前か後ろか右か左に並びつつ、「あの人、よく言ったなあ」と思っていることでしょう。この文脈では、それだけが言いたかったのですが、ちなみに奥田先生は、その言葉を聞いて真剣に恥じ入り、以来、「あんたもわしも、おんなじいのち」という言葉をすごく大切にしておられるようです。

 ようやく本題に入ります。
 私は、生まれてはじめて聖書を読んだとき(新約聖書から読み始めました)、やたらと、「目の見えなった人が、イエスによって、見えるようになった!」「足のなえた人が、歩けるようになった!」「重い皮膚病(らい病、ツァラアト、規定の病)の人が、いやされた!」みたいな話に、めちゃくちゃ感動して涙を流していたのです。それはいまも変わらず、さっき、また盲人バルティマイの話で、涙してしまいました(その話は下に書きます)。どうも、人が感動するポイントと違うみたいで、ひとにこれを話すと、「純粋なんですね~」とか言われて終わるのですが、どうも違う。
 この理由が、ここ2日くらいで、はっきりわかりました。
 私は、聖書も、「助けてもらう側」に感情移入して読んでいたのです!

 だから、盲人バルティマイ(この話をご存知ないかたには申し訳ありませんが、知らなくてもだいたい意味は通じると思って書いています。また、聖書の引用すら記憶に頼ることをおゆるしください。自分の言葉になっちゃっています)がイエスによって癒される話でも、「多くの人が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」と書いてあります。彼は、盲人の乞食です。たくさんの人に叱られて、黙らされようとしています。すごいですね。厚かましいくらいというか。
 するとイエスは彼を呼ぶわけです。彼は言います。「先生、目が見えるようになりたいのです」。もう、すごい厚かましいじゃないですか。でも、それで、彼は、ほんとうに、目が見えるようになるのです!私にはこの話は、これくらい厚かましくてよいというか、「甘えましょう!」と言っている話に思えてなりません。そうはっきり言葉にできたのも、この町に来てからですけど。

 私のこの聖書の読み方を、「独特」と評したかたがあります(ほめ言葉です)。たしかに、こういう話をほとんど教会のお説教で聞かないのは、たぶん、牧師って、多くは、「助ける側」の人だからじゃないでしょうか。

 つまり、「助けられることのほうが多い人間」である私の持っている「特典」のひとつは、聖書の、この手の奇跡物語が、ものすごくありがたく読める、ということなのです!助けてもらう人に感情移入しちゃって読んでいるので、どれほどありがたい話か、痛感しているのです。じつは今もこれを書きながら、感動のあまり、また涙していました。

 「80:20」というnoteの記事は、こちらへ来てから書いたはずですが、その時点で、私は、「助けてもらうほうが得意な人」というような表現に「?」とつけたと思います。なんだか日本語として違和感があったのです。しかし、この町に来て、その「?」は要らないことがようやくわかりました。「助けてもらうほうが得意な人」って、ほとんど「特技」と言ってよい。そう言われると、私も、「特技」と言えるほど得意とは言えないな、まだまだだな、とも思いましたので、これからますます「助けられるのの達人」を目指していきたいと思うようになりました。あと何年も何十年もかかっても。(これからの私の人生は、ますます「助けてもらう人生」になりそうだし。)

 神様は、私に、そのことを気づかさせるために、私をこの町に送り込んだのかもしれません。

 この私の記事は、はたしてどれくらいのかたが共感してくださるのか、わかりません。意味不明と思われるかたもあるでしょう。意味のわからないかたには、「平凡でつまらない話」に思えるかもしれません。それは私の筆力の及ばないところですが、それ以上に、やっぱり、この話は、無意識のうちに自分を「助ける側」に置いている多くの人には通じない話のような気がしているのです。ごめんなさい。鼻つまみものですよね。じつは、いま、この記事は、書いてから少したって、書き直しています。ゆうべ、妻と電話でシェアしたのです。最初、どうしても通じませんでした。絶望的なほど通じなかったのですが、「バルティマイ」の話にしぼって、私は、彼女に、説明を続けました。やはり私は感動のあまり涙でボロボロになりながらの説明になりましたが、とにかく、彼女にはほぼ完全に通じたのです!ですから、この記事も、全部、消してから、全部、書き直すくらいの大胆な書き直しを行なったら、もしかしてもっと通じるものが書けるのかもしれません。

 もう一度だけ、バルティマイの話を書かせてください。なぜ彼は、多くの人に叱りつけられて黙らされようとしたのか。盲人の乞食が大きな声を出しているので、「偉い」イエスさまのじゃまになるとみんな思ったからですよね。聖書の別のところに出てくる盲人の話をここに出して恐縮ですが、これ、叱りつけている人たちのほうが見えていないのです。盲人であるバルティマイだけが、見えているのです。とにかくバルティマイは厚かましい。「そりゃ、バルティマイは、目が見えるようになりたかったのだから、必死だったろう」とかそういうレヴェルではないのです。それは、バルティマイに感情移入している人の見方ではありません。それは、どこかひとごとです。まあ、ひとそれぞれ、ものの見方はありますので、否定したりはいたしませんが、私のごく自然な読み方では、バルティマイは、相当に厚かましいというか、すごい大胆というか、勇気をふりしぼって、空気を読まずに、正面からぶつかっていった、すごい人です。それをイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言っているのです。
 「求めなさい。そうすれば与えられる」って、こういうことではないでしょうか。

 聖書を読み始まったごく初期から、ごく自然に気が付いていたことがあります。イエスさまは、バルティマイ(やたらバルティマイばかり出していますが、聖書にたくさん出てくる、イエスによって奇跡的に障害や病気の癒やされる人、みんなです)に、「いつからそうなったのか」とか「なぜ、そうなったのか」とか、いっさい聞きません。問答無用に、見えるようにしてくださいます。これが印象に残った理由も、いまははっきり言葉にできます。私は、精神科で、「いつからなったのか」「なぜ、そうなったのか」ばかり聞かれています。バルティマイにすっかり感情移入している私は、ですから、イエスさまが、いっさいそういうことを聞かないで、ただ、癒やしてくださることに、感動するのです。

 何度も脱線してすみません。なんとか伝えようとして、文章が長くなっています。私が以前からずっと苦手な讃美歌で、以下のようなものがあります(これも記憶で書いていますので、字句通りでなかったらすみません)。「隣り人はだれでしょう。みんなともに探そうよ。弱く貧しいお友だち、病んで苦しむ人たちも、みんな同じ隣り人」。なぜ、この讃美歌が苦手なのか、ゆうべの電話のとき、はっきり言葉にできたのです。私にとって、「弱く貧しい」と言ったらまず自分のことであり、「病んで苦しむ」と言ったら、まさに自分のことなのです。しかし、この讃美歌は、明らかに、その人たちは、「隣り人」と言っており、自分のことではありません。それが、非常に気持ち悪いというか、居心地が悪いのです。
 この讃美歌に限らず、このような精神は、教会のあちこちで見られます。私はいちいち違和感を感じています。上の讃美歌は、典型的な一例に過ぎません。

 この町にもいるんですよ。ボランティア精神の旺盛で、助けるのが得意な人。もちろん、そういう人がいるおかげで、私のような、助ける20、助けられる80の人間は、助けてもらうことができるわけで、ありがたいのですが、その代わり、20:80の私には、そういう、自分が助ける側にしか身を置いてない人の、なんといったらよいか、上から目線のごときものは、敏感に察知します。「あなたも、助けてもらう側になるのに!」って思っちゃうのです。そのことは、このnoteで、何回も書いてきてる気がしますので、もうこのへんにしておきますけどね。(教会は「奉仕」の精神がありますけど、奉仕の精神には危険性もあると感じます。奉仕ばかりしていると、無意識のうちに、自分が助ける側にしか身を置けなくなります。自分だって助けてもらう側になることに気が付かなくなるのです。)

 (私が、やたら奥田先生の本とか記事が好きなのは、奥田先生は、助ける側でありながら、そこは乗り越えておられるかただからです。私は、ホームレス支援なんて、ずっと偽善だと思ってきました。しかし、奥田先生は、ご自分が偽善者だとわかっておられます。そこが信頼できるのです。私の身近にも、障害者相談支援センターの、ベテランの相談員で、その一線を完全に乗り越えておられるかたがいて、ありがたい思いをしています。そのかたの「名言」をひとつだけ挙げますと、夜遅くまで私の相談に乗ってくださったあげく、別れるとき、「こんなに夜遅くまで、ありがとうございました」って、その相談員のかたが言ったのです!私じゃなくてね!)

 というわけで、話があちこちにとんですみません。一回、書いたものを、マイナーチェンジであとから書き直しているので、なおさら、あちこちにとぶ話になってしまいました。つまり、つい最近、私の聖書の読み方は、助けられる側からの読み方だということ、そして、それゆえに、イエスさまの数々の、障害や病気を癒やす奇跡の物語が、涙がでるほど感動的だということがわかること、そして、それは、助けられることのほうが多い人間の「特典」であること、それらが、この町に来て、つながった、ということが報告したくて、この記事を書いたのです。

 繰り返しになりますが、どうしても、うまく書けている気がしません。ゆうべはどうして通じたのだろう。でも、通じるかたには通じると信じて、「マイナーチェンジ」をいたしました。じつは、このnoteは、あるひとりのひととシェアしたくて書いています。その人は、おそらくわかってくれると思っています。私としては、その人ひとりに伝わればよいのです。

 長くなってしまってすみませんでした。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。 

 

 


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