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イスカリオテのユダはなぜ裏切り者か

 「イスカリオテのユダ」と言えば、おそらくあまり聖書をお読みになったことのないかたでもご存じの、「裏切り者」の代名詞のような人です。きょうは私は、彼がなぜ裏切り者と言われるのか、自分の意見を述べたいと思います。その前に、この意見は、ある牧師さんがある年の説教でおっしゃっていたことに大きなヒントを得ておりますので、そのこともいま触れておきたいと思います。

 イスカリオテのユダは、マタイ福音書によれば自殺し(「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」。マタイ27:5)、使徒言行録によれば事故死みたいな描き方です(「ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」。使徒1:18)。ユダの死について書いてある聖書の記事は、この2か所だけで、それらが食い違っているのです。以下は勝手な私の想像です。

 まず、ユダは、イエス処刑後、なぜかは知らないけれど、すぐに死んだということ。これは動かせない事実であったとしましょう。

 つぎに、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ福音書14:50)と聖書に書いてある通り、ユダだけではなく、みんな逃げたのです。みんな、イエスを裏切ったのです。なのに、なぜ、ユダだけが裏切り者扱いなのか。おそらく、こういったことは、みんな、誰かひとりのせいにしたいのです。そして、なぜだか知らないけれど、ユダは死んでいる。これで「裏切り」は、一気にユダひとりのせいになっていったのではないか。

 これは、新約聖書が書かれる前の時点でそうだった。そこで、新約聖書が書かれるころには、ユダはすでに裏切り者扱いだった。上述の、ユダの死を描く聖書の記述が食い違うのも、そのせい。伝承が違うだけで、ユダが死んだこと、そしてユダが裏切り者であることには変わらない。

 こんなところじゃないかなあ…、と思っています。繰り返しますが、ある牧師さんが言っていた話に依存しています。しかし、現時点での私の考えはこうですね。

 モーセがヨルダン川を渡ることなくネボ山で死んでいくのも、まず「モーセは約束の地に入ることなく死んだ」というはっきりした動かせない伝承があって、あとからどのように「脚色」しようにも、それは動かせないのにも似ているかもしれません。

 なんだかこの記事は中途半端に短いですね。あまりきょうはヒット記事は書けないかも!どうぞおゆるしを。ここまでお読みくださりありがとうございました。

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