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教会役員の特権意識

 ある教会の役員になる条件として、「洗礼を受けてから何年以上たってから」というのがありました。これはなんとなく直感的にあまりよくないルールである気がしますね。なった人に特権意識が芽生えるようなルールです。実際にそこの教会の役員にはそういう意識があったと思います。

 奏楽者も「洗礼を受けてから何年以上たってから」というルールのある教会もあると聞いています。私はCS(教会学校)スタッフは、洗礼を受ける前からやらされていたけどなあ。洗礼を受ける前からCSで司会をし、説教までしていました(!)。いまから思うと「ノンクリスチャンが説教する教会って…(笑)」って思いますが、それでいいのではないですかねえ。私は洗礼を受ける前から青年会長になりました。このままだと洗礼を受ける前から役員になりそうです(笑)。たしかに、毎週、教会に来る人って「熱心な人」と思われてしまいますので、つい教会もいろいろな役割を担わせてしまうことがあります。私もまるで自分の両手両足を引っ張られて「そんなに速く歩けないよー!」という感じで、「自分のペースで『奉仕』ができない」、という悩みがありました(牧師に言ったら少しCSスタッフの仕事を減らされました)。ですから「奏楽者になるのは洗礼を受けて何年以上」というルールも、そういう配慮なのかもしれません。でも、もしかしたら、「奏楽者の特権意識」かもしれませんよね。私は満足にオルガンが弾けないので奏楽者の一員にはなれないのですが、祈祷会などの奏楽者のいない会では、ひそかに奏楽していたりします。それも「ひそかに」なのであって、「礼拝はダメ」とか「弾くにしても教会員でないとダメ」とかいろいろあるみたいです。礼拝だったら、奏楽者がいなければ、私がいても、ヒムプレーヤー(賛美歌の鳴るマシン)です。なんだかおかしな話です。

 教会の人って「私たちは選ばれた」と思っているところがあります。それは聖書に根拠のあることで(「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」新約聖書ヨハネによる福音書15章16節)、もっともなことなのかもしれませんが、これは特権意識につながっていきます。私には牧師の祝祷の「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちとともにありますように」と言うのさえ、「ほかの人たちにあるのかは知らないけれども、少なくとも私たちとともにありますように」と言っているように聞こえることがありますもの。(それを牧師に告げましたら、その先生の祝祷は変わりましたけどね。「すべての命とともにありますように」に変わりました。)

 「よいサマリア人のたとえ」(新約聖書ルカによる福音書10章25節以下)で、サマリア人は、たんに人に親切にしました。それはユダヤ人とかサマリア人とか関係のないことです。「困っている人がいたら助ける」は宗教も時代も信念も超えて一致できることです。そこには「特権意識」はありません。困っている人がいたら助けましょう。そして、同じくらい大切なのが、困っているときは助けてもらいましょうということです。お互い様ですからね。

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