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ゆるさない、ゆるされない

 いまから、誤解を招きかねないことを書こうとしています。お読みになるかたは、注意深くお読みください。

 しかも記憶で書いていますので、間違っていたら「お前それは記憶違いだろ!」と言われかねないのも承知で書いています。すみません。

 仕事をしていたころ、駅に、北朝鮮の拉致問題のポスターがありました。絶対にゆるさない!といった感じで書かれており、有名人が、「ゆるさない!」という正義感に満ちた表情で写っていました。

 これを見て感じていたことは、うまく言葉になりませんでしたが、おそらく、「ゆるさない!」ということは、私も「ゆるされない!」ということだったろうと思います。

 あわてて但し書きをしますが、拉致はゆるされません。大変によくないことだと思います。私は、拉致をゆるすことを言っているのではありません。さらに言うと、そのポスターの批判をしたいわけでもありません。そのポスターの存在を成立させている、世間のムードみたいなものに圧迫感を感じているということです。

 拉致はゆるされないといった当然のことでも、「ゆるさない!」というポスターの成立するムードの世間は、「私もまた、ゆるされない!」という圧力を感じる世の中でもあります。私もいろいろなことをやらかしており、ゆるしてもらわなければならないことばかりです。よく「失敗はゆるされない」とか、言うではないですか。人間であるからには必ずなにかやらかしてしまう私は、そのポスターにも、世間の圧力を感じているのだと思うようになりました。

 ポスターの話をしているようで、ノープランで書いている私は、結局、その背景にある、自分のことを書かざるを得ません。ずっと、ゆるされないで生きてきたのです。妻と子を見て、ほんとうの親子というものは、「ゆるす」間柄だと思いました。いけないことをしたら叱りますが、最終的にはゆるされる妻と子の関係、そして、また、いけないことをしてしまって叱られる子、そして、最終的にはすべてゆるしてしまう母親。そうして親子のきずなが深められている様子を、十年以上、見てきました。

 私が、子どもに、親らしいことができないのは、そもそも私が、まだ「子」になっていないからだ、ということはだいぶ前から気がついています。私は、幼いころから、ゆるされなかった。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とイエスは言います(ルカ7:47)。まさにそうなので、私は子どもを愛するやりかたがわからないのです。

 そもそも、「そのポスターに象徴されるように、世間が『ゆるさない』『ゆるされない』ムードになっている」ことが言いたくて書き始めた記事ですが、結局、自分がゆるされていない話になってしまいました。
 
 「ゆるしてください」というのも、甘えでしょう。これからの私は、あつかましく、ゆるしてもらう方向性で、生きていきたいと思います。小さいころ、あまりにも甘えるところがなさ過ぎて、自立できていないので、逆に過保護と思われ、自分でもそう思って生きてきましたが、まったくゆるされないでも生きられるほど突っ込みどころのない人はいないでしょう。いろいろ、ゆるしてもらって生きていきましょう。世間は厳しいからなかなかゆるしてくれなかったりして、逆に私がひとをゆるせないこともありますが、いろいろ傷つきながらも、ゆるしてくれる人を探しつつ、一歩一歩を歩むしかありません。世間は鬼ばかりでもなく、しかし、鬼はなし、ということもなく、鬼はところどころにいるものですが、なんとか、鬼でない人に頼って生きていきたいです。

 はじまりと終わりの首尾一貫しない話ですみませんでした。これはこれで、このまま投稿いたします。

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