見出し画像

やましいからバレてもいい

私は昨年の4月から、就労移行支援事業所という障害者福祉に通っています。障害者が就労するために最低限のワードやエクセルのスキルを身につけましょうというところですが、もっぱら今の私はAさんという手厚い福祉の人に相談に乗ってもらいに行っているような感じです。このほか、パソコンのインストラクターとしてBさんという人がいますが、このBさんは塩対応と言いますかありていに言えば「いじわる」な人です。あるとき、Bさんの正体がバレたときがあります。

私はAさんに電話に出てほしくてしばしばその就労移行に電話します。Aさんが出た場合はいいのですが、ときどきBさんが出ます。Bさんは「Aさんは不在です」と言います。私が「Aさんは何時ごろお戻りになりますか」と問うと、「Aさんは直帰の予定です」と言われることが多いです。直帰ならその日はどうしようもありません。ある日も「Aさんは直帰の予定です」と言われました。そこで私が決定的なひとことを言ったはずなのですが、記憶に残っていないばかりか、その日の日記にも私はその自分の言葉を書き残しておらず、そのとき自分が何を言ったか残念ながらここで書けません。とにかく決定的なことを言ったらしく、Bさんは「Aさんは打ち合わせ中です」と言い直しました。「直帰」と「打ち合わせ中」は両立しません。ずいぶんウソがへたですが、とにかくBさんはウソつきであることがはっきりしました。それまでたくさん言って来た「直帰です」もかなりの割合でウソだったでしょう。

もうひとつ、ある生活困窮の福祉に電話をしたときのことです。生活保護について知りたいことがあったので「住まいでお困りのかたはどなたでもお電話ください」というその窓口に電話しました。少し話して、向こうの人は「いまから会議なので」と言って切ろうとしました。私はすかさず「会議でない人をお願いします」と申し上げたら「全員会議なので」と言われました。全員会議ならばどうしようもないので電話を切らざるを得ませんでしたが、あとで以下のようなことがわかりました。つまりその窓口は厚労省の委託だったのであり、厚労省のルールで「窓口をからっぽにしてはいけない」というものがあり、つまり「全員会議」が本当だったとしてもそれは厚労省のルールに反していてアウトなので、やはり「全員会議」はウソであることがわかったのです。

P牧師という人が私に距離を取るようなメールをよこしたことがあります。私はP牧師に嫌われているのではないかと思い、P牧師と親しいQさんに聞いたところQさんは「P先生は揚げ足を取られないように、言葉には慎重になってはるのだ」と言っていました。しかしP牧師を見れば見るほどそうではないことが明らかになっていきました。P牧師は「なんでもしゃべってしまう人」だったのです。オンライン礼拝のYouTube配信でも、思ったことを何でもしゃべってしまう。それで「バレてもいい」というタイプの人だったのです。しかも、「やましくないからバレてもいい」のではありません。「やましいからバレてもいい」のです。

田川建三さんという新約聖書学者がおられます。『新約聖書 訳と註』というぶ厚い8冊からなる大部な著作があります。新約聖書の「訳」そのものより「註」のほうがその10倍くらいのボリュームがあります。「反論したいならすべて読んでからにしろ」と書いておられますが、私はほんとうにすべて読みましたので反論の権利があります(しかも1冊につき平均で20箇所以上の単純誤植を発見して出版社に報告)。なぜそんなにぶ厚いかと言いますと、田川さんも「思ったことを全部書いてしまう」人なのです。その註の特徴をひとことで言いますと「饒舌」ということでありまして、あれを全部読んでしまいますといろいろなことがバレてしまいます。例えば、その本はいかにも学問めかしていますが、「結論ありき」で論を立てているのがバレる場面が、そのぶ厚い8冊のなかで数か所あります。つまり「こういうふうに立論したかったが、無理があるのでその路線をやめた」と書いてある箇所です。「なあんだ、田川さんって自分以外の学者が結論ありきで著作を書いていることをさんざん批判しているけど、自分もそうやって書いているんじゃん!」ということがバレているのです。ほかもろもろです。

「正しい者はいない。一人もいない」(新約聖書ローマの信徒への手紙3章10節)と聖書に書いてあります。みんなやましいのです。ウソをつかない人は一人もいません。私は22歳の、まったく教会の西も東もわからなかったころ、教会の半日集会で、ある高齢の女性が「義人なし、一人だになし」とおっしゃって、それが聖書の言葉だとも知らずに、深く感動したことを鮮明に覚えています(さきほどの箇所の文語訳です)。いま思えば私の「洗脳」を解く言葉のごく最初のころのものだったことになります。私の父は「なにもやましいことはないのだから、バレてもよいのだ!」と言います。その洗脳から解かれるような言葉だったのです。冒頭の「直帰しました」の人もそうです。「やましくないからバレてもいい」のではありません。「やましいからバレてもいい」のです。私も含めてみんなやましいのですから。だいたい神様にはぜんぶバレていますしね!そのうえで神様は私が生きることをゆるしてくれているわけですから…!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?